よき祖先をめぐる時間と思考の旅~『グッド・アンセスター』
"How to think long term in a short-term world"、そんなサブタイトルがつく本『グッド・アンセスター』が出版された。著者はイギリスの哲学者ローマン・クルツナリックさん、訳者は現代僧侶の松本紹圭さんだ。環境問題やパンデミックをはじめ、人類は先延ばしできない緊急性の高い課題に直面している。これらの課題に対応していくために、今を生きるわたしたちが「いかにしてよき祖先になれるか」、そう問いかけることで読者を長期思考へ誘い、よりよい選択肢better alternativeを選び取れるよう促してくれる。
先日、『グッド・アンセスター』の出版記念ライブオンラインイベントがあったので参加した。そこで「先人から受け取っている「恵み」は何か?」について考える時間があった。わたしは「医学の進歩、数学、コンピュータ、本」を恵みとして考えた。
医学が進歩していなければ、わたしはこの世に誕生していなかった。わたしが母親のお腹にいたとき、母親が脳卒中になったからだ。医者からは母親を選ぶか、子供を選ぶかといわれるほどの状況だったらしいが、幸いにも、どちらも助かった。医学の進歩のおかげで、わたしという一つの生命がここにある。
数学は自分が単純に好きだというのもあるが、好きになる過程には、先人たちが築き上げてきた数々の数学に関わる歴史があり、そこに触れることのできた出逢いや幸運がいくつも重なっている。グラフ理論を切り開いた数学者オイラー、現実の複雑なネットワークを理解するためにグラフ理論を物理学的に発展させた物理学者ダンカン・ワッツさんやアルバート=ラズロ・バラバシさん、他にも『数学ガール』シリーズで有名な結城浩さんもすべてわたしの「数学が好き」を支えている。
コンピュータ、これがなければ、データサイエンティストとしてのわたしはいないと思われる。今は比較的に簡単にデータを手に入れることができ、またそれを自宅のA4サイズのノートPCで計算できる。顔認証で人間の感情を読み取ったり、音声から感情を読み取ったりなんてこともできる。
本も好きなので、本があることにも感謝だ。中国では、印刷技術が発明されてから、中国文化が深化したと言われる。本を読むたびに考えが深まるのはとても楽しいものだと思う。
語り尽くせないくらい先人からの「恵み」を受け取り、今を生きているわけだが、『グッド・アンセスター』では、「あなたはよき祖先になれるだろうか」と問いかけてくる。一瞬、思考停止してしまいそうになる。「祖先」という言葉が持つ壮大な時間に圧倒されてしまいそうになるのだ。
著者ローマンは「長期思考」で考えようと提案する。わたしの住んでいるshort-term world(ビジネスの世界)では、”長期”というと、だいたい10年である。短期戦略は1年、長期戦略10年だ。しかし、ローマンは、その程度は"短期"だとみなす。ローマンが提案する長期思考の一つに「世代間の公正」というのがある。ここでは、”7世代先まで考える”と書かれてある。人間の寿命ざっくり100年だとして、7世代というなら、1000年前後がローマンのいう”長期”である。時間感覚が100倍違う!
あらためて、ローマンの問いに、時間軸を追加してみよう。
「1000年先の未来からみて、わたしたちはよき祖先だろうか」
ほんの少し具体的にはなったが、大きすぎる時間軸にイメージがわかない・・・1000年後は、今とはまったく違う世界になっているだろう。ましてや不確実な時代だ。どんな世界になっているか、何が起こるかなんて予測すらできない。でもイメージできないからといって、何もできないということを意味しない。この「よき祖先」を巡る思考は、わたしの仕事でついてまわる問いに似ている。
仕事でいくつかのベンチャーでAI技術顧問をしている中で、いつも自分自身に問うことがある。それは「この技術によって不幸になる人はいないだろうか」と。良かれと思って開発したことでも、予想外の悪影響がでることがある。データサイエンティストとしての仕事も同様だ。分析した結果が、犯人探しに使われることがある。あいつが問題だ、こいつがおかしいといった風に。技術や分析がわたしの手元にあるときは、そうならないように気をつけることができても、一旦わたしの手を離れてしまうと、それをどう解釈し、どう使っていくかは人それぞれだ。未来はコントロールできない。
データを扱う者は社会的な責任が伴う。そうプロフェッショナルな意識として持ってはいても、高い倫理が求められるとき、未来がどうなるかわからないことで、身動きできなくなりそうになる。
ドイツの未来倫理学者ハンス・ヨナスについて研究した『ハンス・ヨナス 未来への責任』(戸谷洋志著)では、なぜテクノロジーが未来世代を脅かすのか、以下のように述べる。
未来世代への責任は、人類が遠い未来の世代を脅かすことが可能になって初めて意識されるようになった問題である。人類にそうしたことが不可能であった時代には、この問いは意味をなさなかった。そしてその可能性を開いたものこそテクノロジーに他ならない。
(省略)
テクノロジーの進歩は指数関数的に増大する。そうである以上、後世に残されていくテクノロジーの影響もまた、指数関数的に累積していく。
多くの恩恵をもたらしているテクノロジーではあるが、一方で、マイナスの影響ももたらしている。この話の難しさは、最初からマイナスの影響があるとわかっていたわけではないということだ。
映画『監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影』では、Facebookのいいねボタンの発明者の言葉がなかなか印象深い。「いいねを作ったときは、ただ愛を広げたかったんだ」。最初は小さな喜びを目的とした機能だった。それがいまや、「いいね」という小さな報酬を求めて、無限欲求ループに陥るユーザを生み出してしまっている。Facebookに限ったことではないが「SNS疲れ」という言葉があるほどに、テクノロジーで掻き立てられる際限のない欲求がある。そこには、テクノロジーが無限性が関わっている。
「未来世代への責任」とはなんであろうか。戸谷は以下のように述べる。
未来世代への責任は、未来世代の幸福を目的としたものではない。未来世代が求めること、望むことを叶えてやることが、未来世代への責任ではない。後世の者たちが幸福になる権利ではなくて、むしろその義務、つまり真に人間として存在するという義務を気遣わなければならないのであり、だからわたしたちは、この義務を果たす能力、すなわち、この義務を自ら引き受ける能力が後世の者たちに備わるよう気遣わなければならない。
わたしたちは未来に責任を託す責任がある。
1000年後の未来世代を幸福にしてあげようなんていう思いを強制することは、未来世代への暴力である。わたしたちができることは、未来世代が人間らしく生きれる能力が備わるように気遣うことだけである。ここでいう能力は「想像力」を指す。
『グッド・アンセスター』の中でも、長期思考を養うため一つの要素として、「想像力」があげられていた。1000年後どうなっているかわからないけれど、その時代を生きる人たちが生き延びるような想像力や知恵が備わる土壌をつくる、それが今のわたしたちが未来世代のためにできる責任である。
しかし、どうしても「未来」のことを考えるとき、「未来のために現在を手段化」しがちである。未来のためにがんばって勉強したり、仕事したりする。そして、未来がないことを極端に恐れてしまう。
そもそも「時間」とは主観的なものである。社会や時代によっても捉え方は違う。『時間の比較社会学』(真木悠介著)では時間観を4つに分類する。
近代社会では、わたしたちの多くは明日も明後日も未来があると思っている。これは、過去方向にも未来方向にも永遠に時間があるという「直線的な時間」の捉え方だ。しかし「未来」があることは当たり前ではない。アフリカの伝統的な社会では「未来」が存在しない。あるのは「日が登る時」「牛が鳴いた時」といった時間であり、それは「反復的な時間」である。
他にも、仏教では春夏秋冬、季節は巡る、あるいは輪廻といったように、「円環的な時間」を捉える。キリスト教では、始まりと終わりがあるという限定的な時間、「線分的な時間」を捉える。
物理学においてはアインシュタインの相対性理論により「時間は存在しない」とする。「時間が存在する」ことは物理学では証明できないのだ。この辺の話は、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』にかなりわかりやすく説明されている。以下のWIREDの記事も参考になる。
「存在しない時間と存在するはずの未来」
https://wired.jp/2020/01/01/editors-letter-jan-2020/
『グッド・アンセスター』では、短期思考を「直線的な時間」とし、長期思考を「円環的な時間」だと定義する。
時間を因果論に展開するとき、「直線的な時間」においては、時間は過去から未来に向けた因果があると考える。過去が原因で、未来が結果である。「円環的な時間」においては、過去も未来も双方向に因果を考える。過去は未来に影響を与え、未来は過去に影響を与える。
「わたしたちはよき祖先になれるか」、この考えを深めるための一つの方法として、直線的な因果律ではなく、円環的な因果律で考えてみてはどうだろう。円環的な因果律では、今現在の問題を維持している「関係」や「パターン」に注目する。ネットワーク思考だ。システム思考とも呼んだりする。
直線的な因果律で考えてしまうと、すべて「過去」が悪いとなってしまい、拉致があかない。そうではなく、「過去」も「未来」も双方向に影響しあっているという円環的な因果律であると、今のわたしたちができることがみえてくるように思う。
『時間の比較社会学』では、以下の一文が結論として提示される。
われわれが、コンサマトリーな時の充実を生きているときをふりかえってみると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだということがわかる。
「よき祖先」になれるかどうかは、今を生きるわたしたちが、「他者」や「自然」との関係性の中にあり、自分という内と外との境界線が溶かすことができるかにかかっている。利他の中にあってこそ知恵が湧いてくる。
「未来世代」というと、どんな世界でどんな風に生きているのかを想像することが難しい。ましてや1000年先の未来なんて、想像できない。けれど「未来世代」といっても「他者」であることには変わりない。同様に、「過去世代」、つまり「死者」も同じく「他者」である。「現在」を生きている人たちだけが「他者」なのではない。
『グッド・アンセスター』のオンラインイベントで、「先人から受け取っている「恵み」は何か?」というお題がでた。このとき、「過去の他者」との関係に触れ、今ここにある生に深い感謝の念が湧いてきた。もし、先人たちが自分だけが良ければよいと生きていたならば、今ここにある幸福は存在しないからだ。そう考えるとき、未来世代にとってよき祖先であるかどうかは、今の自分が、未来のことを思いつつも、ここにある生を充実させることにかかっているのだろうと思う。
「先人」という言葉はとても好きである。「先人」にはancestor(祖先)という意味のほかに、pioneer(先駆者)という意味もある。今を精一杯生きることは、誰であってもその時代のpioneerなのではないかとも思う。
『グッド・アンセスター』の訳者は僧侶である。「死者」と多くの接点を持つ僧侶が『グッド・アンセスター』を翻訳したことは興味深い。未来世代のことだけを考えると、思考停止してしまいそうなところを「死者」の登場によって、読者に訴えかける響きが洗練される。僧侶だからこそ、Ancestorを「先祖」ではなく「祖先」と訳すことができたのではないか。
チリの生物学者フランシスコ・ヴァレラの言葉で好きな言葉がある。
Life is so fragile, and the present is so rich.
よき祖先をめぐる時間と思考の旅は、わたしの人生とそこに関係する未来を少しばかり豊かにしたように思う。
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