データでみる世俗化『宗教の凋落?』
今の欧米の若者の宗教観を表す言葉として、"Spiritual but not religious"がある。特定の宗教を信じているわけではないけれど、宗教の持つ精神性(スピリチュアルなこと)は支持しているといったような意味だ。Wikipediaにもその定義が掲載されている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Spiritual_but_not_religious
はじめてこの言葉を聞いたとき、私も同じ感覚だと思った。これまで、海外の友人に「宗教は何?」と聞かれたら、"I'm Buddhist."なんて答えていたけれど、実のところ、仏教に詳しいわけではない。
仏教界のプロフェッショナルといえば「僧侶」だ。私の人生で初めて僧侶と会話したのは去年(2020年)だ。PR Table社が開催したConferenceで、「人事のテクノロジー活用は、ホントに従業員を幸せにできるの?」というテーマで講演する機会をいただき、そのときに一緒に登壇したのが現代仏教僧の松本紹圭さんだ。
https://update.prtable.com/conference/technology/
人生で初めて会話するお坊さん。これが正真正銘の坊主の坊主頭・・・!と、どうしても頭に好奇心が湧いてしまう。なぜなら、私の人生のジンクスに「坊主とヒゲは私の人生に影響を与える」というものがあるからだ。ネットワークサイエンス(つながりの科学)の師匠である増田直紀先生も坊主頭、ペンシルバニア大学のAdam Grant先生も坊主頭だ。しかし、今回はホンモノの坊主の坊主頭。これは素晴らしいことが起きるに違いない。その後、松本さんから仏教の話を聞いていると、私がこれまで探求してきた「働く人々を幸福にする分析」のヒントが多くあることに気づく。それ以降、仏教や宗教の勉強をしている。
"Spiritual but not religious". この言葉が表している現象として「世俗化」がある。宗教離れだ。日本の仏教界では、寺離れともいう。世俗化の概念が登場したのは、20世紀はじめに、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが「世界の脱魔術化」といったのが最初だといわれている。当時、宗教とは独立した世俗的な国家(政教分離)ができはじめたころであり、また、宗教的なもの(魔術的なもの)が取り除かれていくことで、近代科学が発展した。フランスの社会学者デュルケームも、科学技術の進歩により宗教は必要なくなるといった。アメリカの社会学者ピーター・L・バーガーは、社会が宗教から離脱するプロセスを「世俗化の時代」と論じた。
しかし、21世紀に入り科学が進歩しても、世界は、世俗化どころか、「宗教への回帰」が起こっていた。例えば、2001年9月11日にイスラムの過激派組織が引き起こしたニューヨークの同時多発テロ。世界全体が世俗化しているわけではななかった。のちに、ピーター・L・バーガーは「世俗化理論」は間違いだったと述べるに至っている。
結局、「世俗化」は社会学的な解釈の範囲にとどまり、実態がよくわからない。そう思っていたのだが、最近、日本で翻訳出版された『宗教の凋落?』(ロナルド・イングルハート著/山﨑聖子訳)では、膨大なデータを駆使して「世俗化」について分析していておもしろかった。使っているデータは、1981年から2020年までの100を超える国や地域で行った世界価値観調査(World Values Survey : WVS)とヨーロッパ価値観研究(European Values Study / EVS)である。40年間、データを取り続けてきたことに敬服する。
世俗化はどのくらい進んでいるのか。例えば、「生活において神は非常に重要」と回答した人は、1894年~1903年生まれで42%、1994年~2003年生まれでは11%。肌感覚でしかなかった世俗化が数値になっていてわかりやすい。世俗化は、大きな革命が起きて一気に世俗化になるわけではなく、世代交代によって起こる。先のデータを例でいうと、1994年~2003年生まれの人たちが、全人口に占める割合が増えるに従って、"Spiritual but not religious"な世俗化が浸透していく。
さらにこの本では、世俗化は、高所得国(主に北欧、アメリカ、日本など)で起きており、その原因は「生存への安心感の高まり」だという。
マックス・ウェーバーやデュルケームは「科学の進歩」が「世俗化」を引き起こすといっていたが、この本では、「生存への安心感の高まり」が「世俗化」を引き起こすとある。実際、科学が進歩しても、世俗化していない国がある。これは統計学でいう交絡因子の話だ。そんなことがデータでみえてきておもしろい。
科学の進歩は、安心感を高める(正の相関)ともいえるし、逆に不安を高める(負の相関)ともいえる。医療の進歩は平均寿命を押し上げ、乳幼児の死亡率も圧倒的に減らし、生存への安心感を高めた。水道ひねればいつでも水は飲めるし、24時間のコンビニでご飯を簡単に買って食べることもできる。文明によって便利で安心な生活を送れている。
一方で、人工知能の発展は、人から仕事などを奪うといったシンギュラリティへの不安を招いている。他にも、『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)では、バイオテクノロジーの進化によって遺伝子改良できる人類(ジーンリッチ階級)と遺伝子改良できない人類(無用者階級)がうまれ、ホモサピエンスは滅び、ポストヒューマンが誕生するなんていう話もある。
世俗化は科学の進歩によってもたらされたのではなく、人間の「感情」によってもたらされたのである。そもそも、宗教の魅力は知性よりも感情に訴えかけることにある。最近、曹洞宗のお坊さんに、仏教の勉強しているという話をしたら、「もったいない!」という。座学で知恵をつける前に、知的無垢な状態で、身体的な体験(坐禅など)をするとよい、という。そこで素直に何を感じるのか、それが大事だという。身体的な体験で、私の正直シグナルはどんな波形を出力するのだろう。とても気になる。
『宗教の凋落?』では、幸福感(主観的ウェルビーイング)との調査もある。世俗化が進む北欧が最も幸福度が高く、その要因は「信仰心の希薄さ」ではない。近代化により社会が民主化、寛容化した結果、どのように生きるのか、個人の選択の自由が拡大されたことが幸福感の向上につながっているという。また、信仰がある人のほうが、信仰がない人よりも幸福度が高いのだそう。
アメリカの進化生物学者ジャレド・ダイヤモンドが、『昨日までの世界』の中で、これからの時代、宗教にはどんな役割が求められているのかについて論じている。これまで、災害や不幸などがあると、人間は宗教に超自然的な説明を求めた。けれど、今は、科学が災害の原因を説明し、幸福や不幸も学問として研究されている。そんな時代で宗教に求められているのは、「儀式によって不安を軽減すること」と「苦悩や死に対する恐怖心を癒やす」の2点だという。感情の問題だけが科学では解消されないということか。
そういえば、ノーベル物理学賞に気象学の研究者が受賞した。ノーベル賞の審査員が気象学を選んだ理由として「温暖化は科学だということを示したかった」といったようなことを言っていた。温暖化の議論は、これまで科学的根拠があるとかないとか宗教的議論が続いていたが、地球環境にアラートが鳴り続けているいま、悠長に議論している場合じゃないだろうということなのだろう。科学(データ)はときとして、議論に終止符を打ち、次の行動を促すのに役に立つ。
コロナで世界が不安で覆われている。安心は世俗化につながる。では不安は宗教への回帰につながるのだろうか。しかし、宗教への回帰といっても、一度、世俗化した国々で、伝統的な宗教への回帰ではないように思う。松本紹圭さんがPost Religionなんてことを言っているが、少なくとも、安心した社会で生きる人々の不安を取り除くための方法はいまだ科学ではみつかっていない。仏教では「一切皆苦」、人生思い通りにならないことを知ることからはじまる。わたしは、働く人々が幸福になる分析をするにあたり、仏教をヒントにできないかと思っている
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?