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「太秦」とは「裏ローマ」であり、「秦氏」とは「反キリスト」集団のことだったのか。

今回は、京都市太秦にある「大酒神社(おおさけじんじゃ)」から考えていきたいと思います。

大酒神社(おおさけじんじゃ)は、京都府京都市右京区太秦蜂岡町にある神社式内社で、旧社格村社

主祭神
始皇帝
弓月王(ゆんずのきみ)
秦酒公(はたのさけのきみ)

大酒神社 - Wikipedia

まず「大酒神社(おおさけじんじゃ)」の読みについて、「酒(サケ)」という字は「酒(サカ)」とも読むことができます。

すると、「大酒神社」は「大サカ神社」となります。

「サカ」とは、スキタイの一部族であると考えられています。

サカ (Saka) は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ (Sakai) と呼んだ。
アケメネス朝の『ベヒストゥン碑文』ではサカ、古代ギリシアの歴史書ではサカイと記された民族は、ヘロドトスによると古代ギリシア人がスキタイと呼ぶ北方草原民族のペルシア側の呼び名であるとしているが、一方で大プリニウスはスキタイ人のうちペルシアに近い場所に住む一部族のこととしている。

サカ - Wikipedia

「サカ」は古代ギリシャでは、「サカイ」と呼ばれていたとのことから思い起こされるのが、大阪府(大サカ府)の堺市(サカイ市)です。

この大阪府堺市が、「徐福」の故郷とされている中国の連雲港市と友好都市として提携しているのです。

堺から日本へ!世界へ! 友好都市 連雲港市 徐福祭 秦氏調査 ...

このことは、「堺市」と「徐福」が深く繋がっていることを表しているのではないでしょうか。

大阪の堺市周辺で、特に有名な徐福伝説は見当たりませんが、堺市の歴史的有名人には「千利休」がいます。

そこで、この「千利休」が「徐福」と繋がっているのではないか、と閃いたのです。

以前の記事で、「豊臣秀吉」の父とされる「竹阿弥」という人物が「ヤジロウ」であり、そのヤジロウが「千利休」でもある可能性を考えました。

そして「千利休」や「聖徳太子」らが、世界史で有名なアレキサンダー大王や、イスラム教の創始者マホメット(ムハンマド)の系譜であることが、同時代の歴史的人物に「暗号」として組み込まれている可能性を発見したのです。

「大酒神社」の祭神は、秦始皇帝・弓月王・秦酒公とされており、秦氏ゆかりの神社であることが示されています。

この「大酒神社」が「大サカ神社」であるとすると、「サカ・スキタイ」との繋がりは見つかるのでしょうか。

この「サカ・スキタイ」とは「蘇我氏」と繋がっている、と言われています。

さらに蘇我氏とは藤原氏のことではないか、と前回の記事で考えました。

そうすると、藤原氏も「サカ・スキタイ」の系譜であることとなり、「大酒神社」と「藤原氏」とは繋がってくるのでしょうか。

「大酒神社」の祭神には、「豊彦王」という名も挙がっているのです。

 京都、昔風に言うと山城国葛野郡に大酒神社が鎮座しています。社のお名前は元々「大辟(おおさけ)神社」であったそうなのですが、ここの主祭神は「秦始皇帝」「弓月王」と「秦酒公」の三柱。弥勒菩薩像で余りにも有名な広隆寺の創設者であり、先に、上で見た「常世の神」を懲らしめた秦河勝は酒公の六代目に当たります。つまり「大酒」神社は松尾、伏見稲荷の両社と並んで秦一族の祖神だと考えられているのですが、江戸末期の国学者・鈴鹿連胤(姓は中臣、1795~1870)が著した『神社覈録』(全75巻)によると、別な祭神の名前が浮上します。それが、

  安閑天皇の御子・豊彦王と弓削物部守屋大連

の二人なのです。更に大辟神社そのものが、元々は東方1kmにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)の分社だとする言い伝えも残されているようです。蘇我「稲目」の娘であった堅塩姫が産んだとされる二人の大王は、それぞれ、

  用明天皇=橘豊日天皇  推古天皇=豊御食炊屋姫天皇

そして「蘇我氏」一族の中で最も「国民」全てに慕われたとされる「聖徳」太子、厩戸皇子の名前は、

  上宮豊聡耳皇子

でした。皆さんは、これらの人物に共通する「豊」の一字を単なる偶然だと思われますか?それとも、何かを私達に伝えようとする古代人からの暗号なのでしょうか!

稲目の正体 11 豊彦王は実在したか: ダダさんの歴史と人物


上記によりますと「大酒神社」の祭神には、弓削物部守屋という「物部氏」も祀られているというのです。

さらに大辟神社(大酒神社)そのものが、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)の分社であったとの説もあるようです。

兵庫県赤穂市にも「大避神社(おおさけじんじゃ)」があり、「豊彦王」とは「秦河勝」であるとされています。

大避神社(おおさけじんじゃ)は、兵庫県赤穂市坂越(さこし)の宝珠山麓にある神社。旧社格は県社。瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財)で知られる。

祭神
大避大神 - 秦河勝を指す。
天照皇大神
春日大神

『風姿花伝』と同時期の1426年に編纂された『本朝皇胤紹運録』には、安閑天皇の皇子であり「秦氏祖」の「豊彦王」が大辟大明神であるという記述がある。

大避神社 - Wikipedia


ここまでで「秦氏」ゆかりの「大酒神社」には、「豊彦王」という名の「秦河勝」と、弓削物部守屋という「物部氏」も祀られていることが分かりました。

ところで「藤原氏」の祖とは中臣鎌足であり、中臣鎌足は「扶余豊璋」であるという説があります。

 扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが、『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある〔西本昌弘「豊璋と翹岐」(『ヒストリア』107号、1985年)〕〔鈴木靖民「七世紀中葉の百済の政変」『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館 2011年 ISBN 9784642024846〕。

扶余豊璋 について - 翻訳と辞書


ここで注目すべき点は、「扶余豊璋」が、書物によっては「徐豊璋」や「徐豊」とも表記されているという点です。

日本で「徐」と言えば「徐福」ですので、「扶余豊璋」が中臣鎌足であるならば、「藤原氏」とは「徐福」の子孫である可能性が考えられる、ということなのです。

次に「大酒神社」が、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)の分社であったとの説について考えます。

木嶋社の天照御魂神の神格について、史料上では天照国照天火明命(天火明命)説・天照大神説・天日神命説などが見られる[1][4]

木嶋坐天照御魂神社 - Wikipedia

木嶋坐天照御魂神社の祭神の、天照御魂神とは「天火明命(徐福)」という説があるというのです。

そうであるならば、分社とされる「大酒神社」の祭神も本来「徐福」であったのではないかと考えられます。

木嶋坐天照御魂神社の摂社には、養蚕神社(こがいじんじゃ)があるため、蚕の社と呼ばれているとのことです。

蚕養神社(こがいじんじゃ)
祭神:保食神、蚕の神、木花咲耶姫命

木嶋坐天照御魂神社

養蚕神社の祭神の一つが、保食神です。

この保食神(うけもち神)から、豊受大神(とようけ大神)が思い起こされます。

豊受大神と保食神は、同じく食物や穀物を司る神であり、同一視されることもあるようです。

さらに保食神は、大宜都比売神(おほげつひめのかみ)でもあるということです。

大宜都比売神(おほげつひめのかみ)は、
『古事記』において「五穀」や「養蚕」の起源として書かれ、
「保食神」(うけもちのかみ)とも呼ばれる五穀の神です。

大宜都比売神

この大宜都比売神は、「養蚕」と結び付けられており、「秦氏」と繋がるのです。

これらのことから、「豊受大神」とは「秦氏」の神であると考えられ、「豊」とは「徐福」の系譜であるという暗号なのかも知れません。

中臣(藤原)鎌足が「扶余豊璋」であるとすると、「豊」のキーワードが入っていることにより、「藤原氏」とは「秦氏」であるとも言えます。

さらに「扶余豊璋」が、書物によっては「徐豊璋」や「徐豊」とも表記されているため、「藤原氏」が「徐福」の子孫である可能性があり、「藤原氏」とはまさしく「秦氏」であることが分かります。

山梨県富士吉田市には、聖徳太子と「徐福」の繋がりが示されている、福源寺というお寺があります。

聖徳山福源寺は1724年の創建で聖徳太子の木造や自画像が納められた六角堂も建っています。 聖徳太子が諸国の様子を見に旅に出たとき,黒駒に導かれてここにたどり着いたが,その時3枚の自画像を描きました。ここに納められているのがそのうちの1枚です。 徐福は不老不死の仙薬を求めて富士山に入りましたが,その途中で亡くなってしまいます。そして,3羽の鶴に化身して空に舞い上がったのですが,うち1羽が死んで福源寺に落ちてしまいました。この鶴を葬ったのが鶴塚です。 富士山北麓地域の人たちはこの鶴塚を徐福の墓としています。

聖徳太子と徐福にゆかりの福源寺


富士山に入った「徐福」は亡くなった際、3羽の鶴に化身し、福源寺に落ちた1羽の鶴を葬ったとされる塚が「徐福」の墓とされており、福源寺には聖徳太子像や自画像が納められた六角堂があるということです。

「聖徳太子」の別名とは「豊聡耳皇子」であるため、やはり「豊」とは徐福の系譜であることが示されているのではないでしょうか。

以前の記事で、「千利休」が「ヤジロウ」こと「岩屋梓梁」であったとすると、「秀吉」や「家康」が「千利休」の子だった可能性があることを書きました。

「秀吉」とは「豊臣秀吉」であり、「豊」で「徐福」に繋がりますので、やはり堺の商人・茶人である「千利休」も「徐福」の系譜なのだと考えられます。

前回の記事では、蘇我氏とは藤原氏であることを考察しました。

そして今回、藤原氏とは秦氏でもあることが分かりました。

さらに物部氏とは「饒速日命(ニギハヤヒ )」が始祖とされており、ニギハヤヒ とは火明命(ほあかり)であり「徐福」だと言われています。

従って、京都市太秦にある「大酒神社」から導き出されることとは、「徐福」から蘇我氏・藤原氏・物部氏が生まれ出たこと、さらに彼らは全てが「秦氏」だったのだ、ということなのです。

福源寺において「聖徳太子」の肖像画が3枚描かれたことが意味するのは、「聖徳太子」が、蘇我氏・藤原氏・物部氏の集合体として創作された人物だった、ということなのかも知れません。

「聖徳太子」が「秦氏」であることも、RAPT理論によって解明されています。

青いバラを作ったサントリーは出雲族。彼らは「秦氏=ロスチャイルド」の作った「君が代」を忌み嫌っているようです。

「聖徳太子」も「平清盛」もゾロアスター教徒であり、ロスチャイルドの先祖です。


これらのことから、「藤原氏」が「秦氏」であり「徐福」の子孫であることを秘匿するために、日本の歴史が創作されてきたのではないか、とも感じられます。

日本の支配者とは「秦氏」であり「藤原氏」の末裔であると考えられ、彼らは「徐福」の子孫である可能性が高い、と思われるのです。

そして「秦氏」とは一つの氏族の名ではなく、日本の支配者たちの総称であるとも言えるのかも知れません。

それではさらに、秦氏とは何であるのかを考えます。

「大酒神社」は、京都市の太秦にあります。

この「太秦(うずまさ)」から思い起こされるのが、古代中国でのローマ帝国の呼称、「大秦(だいしん・たいしん)」です。

そこで「太秦(うずまさ)」とは、「裏ローマ」のことなのではないかと閃きを得ました。

RAPT理論によって、京都(平安京)とは「裏エルサレム」だということが解明されているからです。

京都こそが裏のエルサレム。悪魔崇拝者どもは京都を中心とした世界政府の樹立を目論んでいます。


それでは、京都市の市章を見てみます。

京都市章


ローマ帝国の国章は、「ラバルム」と呼ばれています。


コンスタンティヌス朝以降の国章ラバルム(ギリシア語でキリストを意味する言葉の頭文字のΧ・Ρを重ね合わせた組み文字)。


京都市の市章は、このローマ帝国の国章(ラバルム)が元となっているように見えます。

ラバルムLabarum)とは、ローマ帝国正規軍のウェクシルム軍旗)の一つ。コンスタンティヌス1世が用いた[2][3]
ギリシア文字ΧΡを重ね合わせたモノグラム組文字[注 1]を旗印としたことが特徴[注 2]。この☧は、今日でもイエス・キリストの象徴となっている。

ラバルム

「ラバルム」は、ギリシャ語で「キリスト」を意味する言葉の頭文字のXとPを重ね合わせた文字で、現在でもイエス・キリストの象徴とされているということです。

しかしながら、秦氏は「キリスト教徒」ではないはずです。

そこで思い起こされるのが、「千利休」です。彼の生誕地とされている大阪府堺市の市章も、「ラバルム」に起源があるのではないでしょうか。

堺市章

「千利休」とは、キリスト教徒ではなく「ドルイド教徒」だったということが、RAPT理論によって解明されています。

「本能寺の変」の黒幕はイエズス会と島津家と毛利家だった可能性大。または千利休がドルイド教徒だったという確たる証拠。


「秦氏」は「大秦(ローマ帝国)」からやって来た、との説があり、秦氏の本拠地であった太秦(うずまさ)のある京都市章や、「千利休」生誕地の堺市の市章は、ローマ帝国の国章「ラバルム」が起源となっていると考えられます。

さらにイエズス会の本部は、イタリアの「ローマ」にあるということで、秦氏→千利休→イエズス会→ローマと繋がります。

ここで思い起こされるのが、「反キリスト」とは「ローマ人」であるという説です。

ローマ人の末裔
反キリストは、ダニエル書でローマ人の末裔であることが明らかにされています。ダニエル9:26では、次のように言われています。

26 …油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。…

ここで「油注がれた者」と言われているのは、イエス・キリストのことで、「断たれ」とは、イエスが(十字架上で)死ぬことを意味しています。「次に来る君主」というのが反キリストのことで、この民が、「都と聖所を破壊する」と言われています。整理すると次のようになります。実際に、歴史上ではキリストが紀元30年に十字架にかけられた後、紀元70年にエルサレムと神殿(「都と聖所」)をローマ軍が破壊しています。ローマ人がエルサレムと神殿を破壊したのであれば、反キリストはローマ人の末裔ということになります。整理すると次のようになります。

「次に来る君主」=反キリスト
「次に来る君主の民」=ローマ人
反キリスト=ローマ人

終末預言を読み解く:反キリストの登場
https://seishonews.com/antichrist-coming/


以上のことによって、「太秦(うずまさ)」とは、「大秦(ローマ帝国)」と対となる「裏ローマ」であると考えられ、太秦を本拠地としていた「秦氏」とは、ローマ人の末裔である可能性があり、徐福の系譜である「反キリスト」集団のことなのではないか、ということが私の頭に閃いてきたのです。

既に2019年にはRAPT理論によって、イルミナティである「李家」の一部が「秦氏」と名乗り日本へやって来たことや、李家とは神様に反逆してきたユダヤ民族のレビ人であったことが、明らかにされています。

今の時代に私たち真に主を愛する民たちが、主に反逆する者たちを滅ぼして、主の歴史の総仕上げをしなければならない。


神様に反逆し神様の心を傷つけ、イエス様を冒涜し貶めてきた「反キリスト」集団が、いまこの時代に厳正に裁かれ滅び去りますことを、心から祈ります。


神様は長い間、人類から反逆されてきたことに心を痛め、苦しんでいらっしゃる。そんな神様の心情を分かって慰め、癒やしてさしあげる者を、主は嬉しく思って愛し祝福してくださる。


神様は、私たちの目には見えません。しかし目に見えなくとも、神様の存在を「心」で感じることができ、神様が与えてくださった「物」からも、神様の存在を信じることができます。


神様が目に見えないのは、人間にとって一つのハンディキャップだ。しかし神様は、敢えてこの世界をそのように創造し、そのハンディキャップを乗り越えて神様を呼び、愛する人だけを天国に招き入れられる。


神様は私たち人間と心と心で通じ合う愛の関係を築きたいと願っておられる。そして、神様は目に見えないから、一切ごまかしのない、本物の愛の関係を築くことができる。


神様は私たち人間の想像を遥かに超える祝福を与えてくださる方だ。


神様を信じるという条件によって、私たちは常に神様からの庇護を受けられるようになった。だから、人生のどんな場面においても神様に助けられ、守られ、どんな願いも叶えられる。


RAPTさんは、神様が私たちのことを心から愛してくださっていて、私たち人類と愛を成したいと願っていらっしゃることを、命懸けで伝えてきてくださっています。


神様が私たちを心から愛してくださっている以上、私たちも心から神様を愛してこそ、神様との愛の関係が成立する。


愛の根源は主だけであり、主の愛を受けた者しか真実の愛を知ることができない。


神様の世界は愛で始まり、愛で終わる。


これから全世界が聖霊で満たされ、聖霊によって世界中の人々が神様の存在を心から信じ、神様の深い愛を心から悟り、神様とRAPTさんの御言葉に心から聞き従い、神様のことを心から愛することができますように、心からお祈りしています。


この時代に送られた中心者は、聖書の歴史の締めくくりを成し、自らの使命を最後まで成し遂げ、これによって天で大きな栄光を受けた。だから、中心者の伝えた御言葉はこれから急速に全世界に広まり、その名が高められるだろう。


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