『その可能性はすでに考えた』井上 真偽

このお話は個人の金貸し屋・姚扶琳(フーリン)と、彼女に1億円以上借金をしている探偵・上苙丞(ウエオロ)が、奇蹟の存在を証明するために、如何なる現実的なトリックも看破し、超自然的な力の存在を追求する新感覚のミステリ作品です。

※ここから先はネタバレを含むかもしれないので、まだ読んでいない方は記事を閉じてください。

ウエオロのもとに、1人の少女・渡良瀬莉世(わたらせ りぜ)が依頼に来ます。彼女はまだ幼い頃、カルト教団が運営する自給自足の村で、三十三名の信者と教祖と生活していました。そこで凄惨な事件が起こります。三十一名の信者と教祖が外鍵の所謂、逆密室の礼拝場で首を斬られ亡くなり、彼女の友人である少年・堂仁(ドウニ)は祭壇の横で首を斬られ遺体として発見されました。彼女はドウニの遺体の横で目を覚ましますが、そこであることに気づきます。下界との交流は遮断され、自分以外の信者と教祖全員が首を斬られて亡くなっている状況は、彼女がまだ幼かったことと、密室の状況から不可能状況であると。しかし、彼女は当時の記憶を断片的にしか思い出せず、自分がドウニを殺してしまったのではないかという疑念を持ち思い悩みます。またその教団では「首無し聖人」という言い伝えがありました。首を斬って亡くなると、聖人として蘇るというまさしくカルト教団のような教えです。彼女はドウニが首を斬られた状態で、自分のことを礼拝場から救い出してくれたという"奇蹟"を証明して欲しく、ウエオロの元へ足を運んだが、、、

というようなあらすじですが、まず設定の面白さは言わずもがな、この作品の面白いポイントは、その推理のプロセスです。ウエオロのもとへ3人の論客(刺客)が現れ、奇蹟の証明を妨害します。3人はこの状況を作ったトリックをウエオロに提示し、ウエオロがそれを実証的・現実的に否定できなければ、それは奇蹟ではなく、ただの事件だと。

また奇蹟の証明の対決のルールはウエオロにとってとても不利なものでした。刺客が提示する仮定は、その可能性が万に一つでもあれば、論として成立し、逆にウエオロの反論はその仮定が絶対に起こる可能性がないことを証明しなければいけない、というものでした。

-『仮に成功確率が十回に一回、いや百回に一回だろうと、その一回が起こる可能性さえ示めせれば、相手側はそれで十分。対してこちらは、その可能性が決して生じないことを、確かな証言や物証に基づいて証明しなければいけない。』

彼は見事に3人の仮定を完全否定し、勝利したように思われましたが、4人目の刺客が現れます。刺客が提示した仮定は、以前の3人の仮定を否定するウエオロの反証が正しいということを論拠にするものでした。ウエオロの反証は一つ一つの仮定に対しては辻褄が合うが、その三つの反証の状況が同時に起こることはない(正しい時系列順に起こらない)というもので、ウエオロが反証せねばいけないことは、言わば"否定の否定"でした。4人目の刺客の仮定を否定すれば同時に、以前の自分の反証が正しくなかったことを意味し、彼は自分が作り出した推理で自分の首を絞める状況になってしまいます。

この構成力、うまく伝えられないのが残念です。こんなにも推理が入り組んでいて難しいのに、事件が起こった現場の状況が単純(トリックを無理やり作るために、事件現場のマンションの部屋割りを、推理小説によくある変な形にしていない)で、推理以外の日常パートのようなものが殆どなく、間延びせずに面白い。ウエオロと刺客の論戦シーンは、もはやバトル漫画のシーンかと思うほど爽快でした。

ウエオロやフーリンのキャラ作りの良さ、著者の世界の文学・拷問・芸術への知識の明るさにより引用される言葉の可憐さ、所々に散見される厨二を唸らせるカッコいい台詞、、、などなど、本書の魅力を余す事なく語り切れる自信がないので、ここまで読んで興味が出た際には、是非読んでみてください。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集