神様から二度めの突き落としをくらって〜失職への答え〜
一度めは、精神障害を負ったハタチ。
レベル15くらいまで登った人生、レベル−10まで落ちた。
15年かけて、一般就労。社会復帰を果たす。
社会復帰といっても、バイトしたこと無いから、35歳にして初の社会進出。
店長は10年間で、数回変わったが、二人めの店長から「日本語喋れるようになったよね、最初何言ってるかわからなかった」と、言われた。
そして、障害者枠でいける限界の職位まで昇った。
衛生検査対策、清掃、パンの成形、焼き、店内放送、発注作業、プライスカードや仕様書作成、本部との連絡、…。ベーカリーでやる仕事は一通りできると、スーパーの店長、副店長から認められ、試験にも受かった。目標にしていた衛生検査での100点も取れるようになり、少なくともコンスタントに首位を取っていった。
ベーカリーの皆をまとめるリーダー格のおばちゃんから、「(僕のこと)リーダーだと思っているから」とも言われた。
19歳から始めた杉田英語。25年以上続けていて、それが歩み続ける僕の人生の歩みとなっている。
そこへ来て、仕事を自分より優先させてしまった。
仕事をしない社員の主任の分の仕事。新しく導入されたピザ窯や広告の品の仕事。職位も上がったし、「リーダー」の言葉もあった。皆がやらない仕事や、やりたがらない仕事をどんどん引き受けていくうちに、燃え尽き一歩手前でドクターストップ。一ヶ月病休。あと一週間遅かったら、もう一生働けなくなっていたかもしれない。
仕事を自分より優先させて、仕事の負担も一気に増えた。新しい職位についてもその仕事を教えてくれる人は辞めてしまう。頼りにしていた長時間のパートの相棒も、短時間に。
仕事ばっかりで、自分の状態を把握できず。自分が見えないということは、周りも見えない。一部の仲間からは嫌われるようになってしまった。
それでも復職後、仲間からは病休前と同じシフトを用意されていた。
しかし、会社がストップをかける。時間をずらして、一人きりの勤務を割り当てられる。二時間くらいで終わる作業。
仲間との連絡は、店長と副店長によって監視されるファイルによる作業内容の連絡のみ。なんとなくのコミュニケーションはLINE含め一切禁止される。
それでも7ヶ月頑張った。
その間、「あとどれくらいで戻れますか?」の質問に、店長はずっと「あと数ヶ月」。
心が折れたのは、仲間の作ったシフトに1ヶ月間ずっと二連休がなかったこと。自分だけ一日休みしかないシフト。
もう、また燃え尽きそうだ、繰り返したくない。そう思って、10年働いたスーパーを辞職。
ハイ、神様から二度めの突き落としをくらう。
辞めて二ヶ月、自分と向き合った。
セルフケア、自分を大事にすることの重要性に気づく。体からの、不調を知らせるサインに対して敏感になった。
坐禅や、自転車での運動、精神科のリハビリにも復帰。忙しくて、予約していたのを忘れたり、電話で済ませていたカウンセリング。リハビリやカウンセリングは、どんなに忙しくても時間を取って行く。カウンセリングなら、カウンセリングルームまで行く。
移動時間もセルフケアなのかも。
運動のための自転車の帰りに寄るスーパーで、食材を買い、料理を楽しむようになった。
昨日、ずっと作っていなかったパンが作りたくなり、レシピがほとんどない状態から、簡単なパンを作った。
それを見ていた母から「近くのパン工場で働いたら?」と言われた。「次、パン屋で働くなら、一生パン屋だよ(だから、パン屋は、ないよ)」と、答えた。
パン屋なんてお金にならない道。宅建の勉強をしていて、なんとか他の道を模索していた。
だけど、「一生パン屋」。自分で言った言葉に、自分の思いに、あとで、自分で気づく。
歩み続ける。壁にぶつかったとしても、歩み続けていると、どうにかレベルアップしていくものらしい。
仕事を辞めて伸ばしていた髪を、もう一度2mm坊主に戻した。
仕事で失敗したとき、修行のつもりで坊主にしたのだ。
もともと、パン屋は好きだったのだ。
歩み続ける人生なら、「お金にならない問題」。なんとかなるかな…。
自分よ、歩け、歩き続けろ。
(書き足し)
母に、「燃え尽きると、自信なくすってカウンセラーが言っていた、頑張りすぎるから燃え尽きるのにね」、「今まで、問題起こしたら仕事で取り返してきたけど、もう、その仕事がないんだよね」と、言った。
自分なりの答えなんだけど。仕事がなくたって良いんだ。自分を犠牲にしてまで働くこと、ない。
二度めの突き落としはそんなに甘いものではなかった。
(さらに書き足し)
答えなんてそんなに簡単に出ないものかも知れない。
生きていくって辛いこと、くらいは本当かな。