自然誌の目
とんでもないところに来てしまった、と思った。
やけに人気だった自然誌(注)の椅子をじゃんけんで勝利して手に入れた事を早くも後悔し始めていた。実習が始まって二日、気づけば午後の時間は全て見廻りに費やされ心身ともに疲労困憊。
見たことも聞いたこともない花についてひたすら説明された挙句、散々歩きまわされ脳も足もとっくに悲鳴をあげていた。
地獄だ、とも思った。他の実習では皆が楽しそうに笑い合いながら作業をしているのに対して、我々の表情は差し詰め賽の河原にでも送られたかのようだった。終の見えない散歩に草臥れ尽くして、只時間が過ぎることだけを願っていた。
誤解を恐れずに言えば、最悪の始まり方をした自然誌での日々だった。
↑ヒガンバナ(彼岸花、石蒜、学名 : Lycoris radiata[1])は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。(wikipediaより引用)
赤い花が美しく、また夏の終わりを告げているようでどこか切ない。
あの中教室に別れを告げてから四年の月日が流れた。今思えば、たったの二年間だった。何事も振り返る時には勝手に美化されるものなのかもしれないが、私には貴重な二年間だったと今は思うことができている。
何より驚いたことは、学内の植物の多様さである。即ち、既に六年も過ごした筈の学校に対し、如何に自分が無知であったかということを思い知らされたのである。
こう書くと非常に否定的に聞こえてしまうが、簡潔に言えば私は純粋に感動したのだ。
今まで自分が長らく何も思わず、何も感じずに歩いてきた道の景色が少しずつ彩られる様な気分になって、自分の無知を恥じると同時に学内の美しさ、またそれを記録し続けてきた自然誌というものにいたく感動したのだ。
もちろん、はじめのうちはそんな事を考える余裕もなかった。年に二度開催される観察会に参加する人々の熱量を肌で感じ、また人に説明するために自ら学ぶことでいつしか私の心にもその様な気持ちが芽生えてきていたのであった。
雨の日も風の日も、ただひたすらに観察を続ける先生方を見ながら最初は驚き、またその熱はどこから来るのかと疑問に思っていた。しかし、ある雪の日に「雪が降ったから見廻りに行きましょう」と言われて自分の未熟さに気付いたのだ。
↑ニリンソウ(二輪草、学名:Anemone flaccida)は、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草(wikipediaより引用)
春に咲く花で私のお気に入りの一つだ。白く小振りな花が二つ一緒になっていて美しい。
それまで自分の目には映ることのなかった、ただの風景の一部でしかなかった草が、花が、木が、まるでたった今名前を与えられたかの様に意味を持ち始める。
もちろん、楽しいことばかりではなかったかもしれないが、それでも今、私は道を歩くときに植物を見ることができる。例え名前を知らなくても、植物が生きているということを知っている。それは紛れもなく二年間の修行の賜物だ。
二年という歳月は長いように感じる。少なくとも短いと思う人は少ないだろう。しかし、自然を相手にすると二年間などは殆ど無に等しい。
四季折々の花は咲く時期が異なり、私はそれぞれの季節をたった二度しか経験していないのだ。長い記録の中のほんの一握りにしかならないのである。
それでも、自らが記したものはこの後も残っていく。数十年を数える記録の中に私が少しでも携わることができているというのは、いわゆる浪漫なのではないか。
↑ユキワリイチゲは、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草である。(wikipediaより引用)
初春に花を咲かせ、春の訪れを告げてくれる。うっすらと紫を帯びた花弁が美しい。
花の名前を覚えることは美しい。そこには知識だけではない、花を愛でる心が表れている様に思える。
セツブンソウの後にユキワリイチゲが顔を出し、春の訪れを告げる。
ヤマブキやセリバヒエンソウが咲き、初夏にはアジサイの花が道を彩る。
ヒガンバナが咲き終わり、晩秋には厳しい冬に備えて力を蓄える。
フクジュソウの花が咲いて、また春の訪れを待つ。
既に私はかなりの数の花の名前を忘れてしまっただろう。しかし、たとえ名前が出てこなくとも花を愛でるその心だけは忘れないでおきたいと思う。その心こそが、私が自然誌で手に入れた大事な種なのかもしれない。
新明解国語辞典
ざっそう【雑草】ザッサウ
知識が乏しいために、名前を言うことが出来ない、多くの草。
注:現在の正式名称とは異なっているが、私が在籍した期間に使用されていた名称で統一させていただく。