その川を上るとき
1
後悔していた。真っ暗な中、電気もつけずに便器にしがみつきながら意味のない反省をしている。明らかに調子に乗って飲みすぎてしまった。本当ならば今頃は楽しい思い出に浸りながら四軒目の居酒屋を出るくらいの時間だ。それなのに黒滝があんな話をしだしたせいで、僕が一人で勝手に盛り上がってしまい酒が進みすぎた。
大体サークルの新歓だって言うのにろくに新入生とも話せずに終わってしまったのも奴のせいだ。黒滝は相変わらず僕よりも先に「こいつ、『カラスエ』って苗字なのよ、珍しくね?」と勝手に僕の事を紹介し、僕の数少ない手持ちの盛り上がる話題を早々に奪ったのだ。「うるさい」と店員に注意されたのも奴のせいに違いない。今日の事で僕は確実に「ヤバい先輩」認定を受けてしまっただろうし、またサークル内での肩身が狭くなってしまう。
そもそもなんだあの居酒屋は。よほど質の悪い酒を使ってるんじゃないのか。飲んだのは確かレモンサワーとハイボールと…。そこまで思い出したところで波が来て胃の中身が押し戻された。そうそう、途中からワインも飲んだんだった。
寒い。床が冷たい。布団はどこだ、と目を開けるとようやくそこが自宅のトイレであることが分かった。同時に、昨夜の嫌な記憶が流れ込んできて頭を抱えた。段々と覚醒していく意識の中、状況を整理していく。頭がとにかく痛い。幸いトイレはそこまで汚してないようだったので、のそのそと四つん這いのままドアを開けて廊下に出ると、その明るさに今がすでに朝であることに気づかされた。
「最悪だな」と呟いてようやく立ち上がった。少し目眩がする上にまだ気分が悪い。咳払いをしながらシンクに転がっているコップに水道水を注いで一気に飲んだ。口の中の不快感が少し軽減された気がした。フラフラした足取りで部屋に向かうと、カーテンが開けっ放しになっていて窓から朝日が差し込んでいた。
東京都下の大学に程近い静かな住宅地にある六畳一間の和室が僕の下宿だった。内見の時に「ほぼ真南なので日当たりは申し分ないです」と言われた部屋は実際「南よりの東向き」くらいで、むしろ昼間よりも朝が眩しく、反対に夜はすぐに暗くなってしまう。どこまでが「ほぼ真南」の範囲なのか疑わしいところだ。冬はまだしも夏は地獄のような日差しが早朝から降り注ぐせいで必要以上に高級なカーテンを購入する羽目になった。それに何より今のような二日酔いの頭にこの明るさは堪える。
眠さと気持ちの悪さでうまく歩けないままなんとかカーテンを閉めて布団を敷いた。今日は日曜日で大学もないし、だからと言って特に予定もないのでもう一度寝る事にした。二日酔いの解消方法は寝るのが一番だと去年先輩から教わったのを覚えていた。
布団に入ろうとしたところでふと自分がひどい格好である事に気づいた。ベルトが外されたジーパンに、上はインナー一枚。靴下を片方だけ履いている。昨日飲み会に行った時の服のままで、おそらく邪魔だったのだろう、上着やベルトが部屋の中に脱ぎ散らかしてある。風呂に入るのは億劫だがせめて服くらいは着替えたい。そう思って押し入れからスウェットとTシャツを出した。ジーパンを脱ぎながら昨日のことを思い出しそうになって、振り払うように首を強く振った。
二日酔いで目眩がするのにそんなことをしたものだから僕はバランスを崩して壁に手をつく間もなく倒れ込んでしまった。脱ぎかけのジーパンのせいで足をうまく床につくことができず、受け身も取れないまま畳に顔を強く打った。声にならないうめき声が出てそれから痛みを感じた。
しばらく身動きがとれなかった。痛かったのもあるし、何よりあまりにも馬鹿げていて起き上がる気になれなかった。昨日から本当についていないことばかりだなと思ってなんだか笑えてきた。こんな狭い部屋で朝っぱらから一人で転がっている。なんと滑稽なのだろう。
僕はもう起き上がるのを諦めて半ば寝転んだままで脱ぎかけのジーパンを足でそこら辺に投げると、手探りでスウェットを履いた。倒れた拍子に少し擦りむいたようだったが、それよりも睡魔の方が強かった。起きてからどうにかしようと決めて目をつぶった。
次に目を開けたのは友人の黒滝からの電話のせいだった。幸い、携帯は昨日脱ぎ捨てたジーパンのポケットに入れっぱなしだったらしく、布団の中からでも手を伸ばすだけで取り出すことができた。最初は自分で設定したアラームかと思ったが、消しても消してもまた鳴り始めるので仕方なく重い瞼を開けると着信履歴が幾つもあったのだ。
慌てて発信元を確認したところ黒滝だったので安心したが、同時にそんな電話に少しでも焦ったことにイラついた。二日酔いからくる体調の悪さは幾分かましにはなってはいたが、まだ回復しきっていない状態で起こされるのは愉快ではなく少し不機嫌を表に出しながら応対した。
「…もしもし」
「お、悪い。寝てた?」
「ああ、ちょっとな」
「まあお前昨日だいぶ酔っ払ってたもんな、無理もないわ」
僕は余計なお世話だ、大体誰のせいで泥酔する羽目になったんだと思いながら適当に話を合わせた。
「それでさ、今日なんだけど。烏江って今日なんか予定あるんだっけ?」
「いや、特にないけど」
この男からの誘いにロクなものはないと知りつつも、嘘をつく理由もなかったので僕は正直に答えた。
「そっかそっか、そんならちょっと夜お前ん家行っていい?暇でさ」
「別に来てもいいけど何もないよ、知ってると思うけどまだテレビも買ってないしさ」
「いいのいいの、ちょっと話したいことがあるだけだから。多分6時くらいになると思うわ。じゃあまた」
分かった、と答える間もなく一方的に電話を切られた。全く自分勝手なやつだな、と思いながら予定ができたことで起きる理由ができたのでよしとした。
僕は寝転んだままどうするか少し考えたが、どちらにせよしばらくしたら起きなくてはいけない。ならもういっそ活動を始めるかと思い布団から出る事にした。時計を確認するともう午後になっていて、せっかくの日曜日だというのに無駄にしてしまったなと思った。
まだ少し残っている倦怠感をなんとか無視しながら時間をかけて立ち上がったが、真っ先に目に入ったのは部屋の惨状だった。ひどい有様だ。脱ぎ散らかした服はまだしもおそらく転倒した時であろう、棚の上に置いていたものまで散らばってしまっている。
普段からお世辞にも綺麗とはいえない様な部屋であったが、僕はこれを機に少し片付けるかと思い掃除を始める事にした。
六畳の中に背の低い棚が一つと、テレビを買う前になぜか買ってしまったテレビ台、冷蔵庫、ちゃぶ台くらいの高さの安物のテーブル。それが僕の家だ。家具と言えるものは他になく、服は押し入れに詰め込んでいるし食器は台所に置きっぱなし。ある意味典型的な男子大学生の部屋と言えるだろう。
特筆するとしたら壁際に積まれた大量の文庫本だろうか。引越しの時に買った棚はいつの間にかパンパンになっていて、本棚を買うかどうか迷っているうちにいつの間にかそこに積まれるようになってしまった。
問題は僕が別に本が好きだというわけでもないというところだ。積んである本のほとんどは読んだことがなく、題名すらもあやふやなものばかりだ。ならなぜこんなに大量の本があるのか。全部僕のものではないのだ。
それは僕が大学に入学した直後、一年と少し前に遡る。今でこそ、休日にいきなり電話をかけてくる様な友人がいるわけだが、当時はまだ右も左も分からなかった僕は、学校に来てみたはいいものの何かすることがあるわけでもなくただフラフラと校内を歩き回っていた。その時のことだった。
大学生なったはいいものの、心の中はまだ高校生の頃とほとんど変わらないような気がしていた。強いていうならば学校に好きなバンドのTシャツを着ていっても何も言われない事に新鮮さを覚えていたくらいだろうか。制服を脱ぎ、スーツを着るまでの数年間の自由を謳歌しようとしていた。
もう完全に葉桜になってしまった桜並木を歩きながらこれから四年間もこの道を通ることになるのかと考えていた。まだキャンパスの地図は頭に入っておらず、大学というのはなんて広いんだろうと思いながらそろそろ帰るか、と正門があると思われる方に道を曲がった。
舗装された道に沿っていくつか並んでいるベンチに座っている人影が見えた。文庫本を真剣そうな表情で読んでいる。先輩だろうか。正直大学生なんてみんな同じように見えるので何年生なのかはわからないが、少なくともその堂々とした雰囲気は新入生のものではなかった。
たまたま裏道だったのかほとんど人通りがないせいで僕は一人でその人の前を通り過ぎる事になったが、別に知り合いという訳でもないので特に気にせず足を進めた。ベンチが設置されている方とは反対の側を歩いているつもりだったが、たいして広くない道幅のせいで結果的に目の前を通る事になってしまった。なんとなく悪いな、と思いながら正面を向いたまま早足で前を横切ると後ろから
「新入生。浮かない顔をしているな」という声が聞こえて僕は驚いて振り返った。
その人はいつの間にか立ち上がっていて、こちらを向いていた。先程は座っていて気付かなかったが背は高く、それでいて痩せていた。髪は長くはないが、流行りの短髪という程短くもなかった。しかし何より気になったのはその服装だった。着物を着て下駄を履いていた。
そして「こんにちは」と白い歯を見せながらゆっくりと言った。
それが、僕と夕張先輩の出会いだった。
最初はまだ同級生の友人もできていないうちから先輩に目をつけられてしまうなどなんという事だと思ったが、夕張先輩はとてもいい人だった。最初に会った時に挨拶をしただけなのに、それからも校内で会うと話しかけてくれた。履修登録の仕方がよく分かっていない僕におすすめの時間割を教えてくれたり、学食のメニューの攻略法を伝授してくれたりもした。
「烏江くん、このカツカレー大盛りってのはな、実はちょっとカレーの量が少ないんだ。だから安く見えるかもしれないけど本当は単品でカレーの大盛りとトンカツを頼んだ方が、20円ほど高いがキャベツの千切りが付いてくるし、カレーの量もそのままだ」と得意げに語る先輩はなんだか面白かった。
先輩は四年生だったが、歳はそれよりも上に見えた。何度か年齢を聞いてみたのだが、その質問だけは毎度お茶を濁して教えてくれなかった。いつしか僕も聞かれたくないのだろうと思ってその話をするのはやめた。それに、別に何歳だっていいと思った。
そして、先輩はとにかく顔が広かった。たまに休み時間に見かける時は必ず誰かと話しているし、一緒に歩いていてもみんなが挨拶をしてきて、先輩はそれに笑顔で答えていた。初めて会った日から変わらず着物を着ているせいか、有名人なのも無理はないなと思った。
しかも先輩はなぜか僕よりも新入生と親しく、そのおかげで僕も友人を作ることができた。一緒に歩いていると無条件に人が寄ってきて、僕もなんとなくその輪に加わっているうちに何人かと仲良くなることができたのだ。
サークルも先輩の紹介で入ることができた。「全国神社仏閣愛好研究会」というよくわからない名前のサークルではあったが、何か特別なことをやっていたわけでもない自分にとっては丁度よかった。活動内容は週一回集まって文献を読んだりするだけの緩いもので、メンバーもそこまで多くなく居心地が良かった。
先輩自身は他のサークルにも多数所属しているらしく顔を出したり出さなかったりであったが、いつもおすすめの文献を片手に現れてはしばらく話してどこかに行ってしまう、といった具合だった。
一度、なぜ自分なんかにこんなに気をかけてくれるのかと聞いたことがあった。先輩ほどの人気者ともなれば僕のような学生と関わる必要なんてないはずなのになぜ良くしてくれるのか純粋に疑問だったのだ。
「理由なんて必要なのかい?」と先輩は笑いながら言った。
そして「じゃあ君は今日から私の弟子だ。そうすれば僕が気にかけても不思議じゃないだろ?」と言い、僕は先輩の弟子になった。
最初、僕はてっきり先輩がその場で適当に言っただけだと思っていた。本当は照れ隠しで「弟子にする」と冗談を言ったのだ、と。しかし先輩はそれから僕を紹介するときはいつも「これは弟子です」と言うのであった。
別に弟子になったからと言って何かが変わるわけでもなかったし、伝授されるものがあったわけでもない。でも僕はなんとなく嬉しかった。少なくとも、嫌ではなかった。
僕が弟子になってからしばらくして、先輩は突然「烏江くんは本は読まないのか」と聞いてきた。僕は正直にそんなには読まないですと答えると「そうかそうか、なるほどね」といつものように笑ったかと思うと「じゃあ今日から君の家は私の書庫だな」と言ったのだ。
その日から先輩は自分が読み終わった本を僕の家に持ってくるようになった。それも毎度ちゃんとあらすじと感想を一通り喋って、「よろしく」と言うのだった。
最初の方は僕も気を遣ってちゃんと読むようにはしていたのだが、元々本を読む習慣を持っていかなった僕に対し、先輩は読むのが早かった。その内にまだ前の本を読んでいるのに次から次へと新しい本が追加されていくせいで僕は追いつくことを諦めてしまった。それにどうせ毎度あらすじを説明してもらうので、読まなくても大体の内容は把握できてしまうのだ。それでも先輩はそのスピードを緩めることはなく、ついには僕の部屋に立派な文庫本タワーが出来上がってしまったのである。
そんな先輩も、今年の3月に無事大学を卒業してしまった。僕はなんだか寂しいようなそうでもないような不思議な気持ちのまま2年生に進級した。先輩は卒業式の後に一度、3月の終わりに僕の家に一人で顔を出して「君はまだ私の弟子なのだからな」と言ってまた本を置いてどこかへ行ってしまった。
それから一ヶ月、サークルの先輩や他の友人に聞いても夕張先輩の行方は分からず、どうやら地元に帰ったらしいという噂だけが流れていた。僕はなんとなくいずれまた会えるような気がして、連絡を取らないまま時間が過ぎてしまっていた。
僕は壁に積み上がった本たちを見て改めて先輩のことを思い出していた。つくづく不思議な人であった。僕は一言「…片付けるか」と呟いてから重い腰をあげ、床の服を拾い上げた。
そこで僕はようやく今朝転倒した時にどうやら文庫本タワーの一つを倒してしまったらしい事に気づいた。数十冊ほどの文庫本が床に散乱しており、勝手にため息がでた。僕は仕方なくとりあえずまずはこの本を積み直すところからだな、と思い初めの1冊に手をかけた。
***
インターホンが鳴る。僕はハッとして顔を上げた。時計の針はいつの間にか5時50分を指していた。僕は慌てて立ち上がって約束を思い出した。黒滝は6時に来ると言っていたが、普段はチャランポランなくせにこういう時だけはむしろ早めに来る男だということを忘れていた。僕は急いで玄関に向かい、5分だけ待ってくれと伝えてから床のものを全て押し入れに詰め込んで掃除機をかけた。
「クソッ、いいところだったのに」
僕は片付けるつもりで手をかけた本を時間も忘れて読み耽ってしまっていたのであった。
不思議な本だった。さして有名であるというわけでもないし、賞を取ったものでもないはずなのに僕には他のどの本よりも魅力的に思えた。内容は学生の日常を描くようなもので、大した事件が起こるわけでもなかったが僕はやけに続きが気になってしまって気づいたら数時間も読み耽っていたのだ。これは普段ほとんど本を読まない僕からしたら珍しいことであった。
黒滝が来ても僕は早くその本の続きが読みたくて仕方なかったせいで、あまり話を聞いていなくて怒られた。しかし彼も何か用事があるわけでもなくただなんとなく話し相手が欲しかっただけのようで特に何を話すというわけでもなかった。僕は内心少しイライラしながら、仕方なく話を聞くことにした。
「それでさ、昨日お前が帰った後も大変だったんだよ。ショウちゃんが新入生にしつこく話しかけるもんだから俺らもドキドキしちゃってさ、でも結局なぜかその新入生も満更でもなかったみたいで最後には仲良くなっちゃって」
「そうなんだ」と僕は生返事を返す。
「お前も大概酔っ払ってたしな、でもよく帰れたな。あんなにベロベロで」
全く誰のせいだよと僕はまた思いながら「まあ家も近かったし。黒滝は結局いつまでいたんだよ」と聞いた。
「俺か?俺は…あんま覚えてないなあ。まあでも最後までいたんじゃないか?1軒目でお前と熱くなったのは覚えてるんだけどな」
黒滝は酒に強い。とにかく強くて僕みたいに気分が悪くなったりしないようで心底羨ましいが、反面、強すぎるせいか結局飲み過ぎて記憶をなくすらしくそう考えるとどっちもどっちなのかもしれない。
それにしてもこいつが昨夜のことを覚えているというのは少し都合が悪い。なぜそこだけ覚えているのだ。いっそ全部忘れてくれていればいいのに、と僕は思った。
全部黒滝が悪いのだ。こいつは飲み会が盛り上がってきて皆が酔いはじめた頃、自分で話題を探すことができなかったのか「烏江はホントにアレだよな、『レイデイバグ』だっけ?あのバンドが好きだよなー」と絡んできたのだ。僕は他のどんな事を聞かれても場面に合わせてそれなりの返答をすることができる自信がある。しかし、その話題だけは別だった。
僕はまず一度深呼吸してから「だから、何度も言ってるけど『レディバグス』だ。いいか、まず彼らはだな–––」と自分でも引くほど饒舌にプレゼンを始めてしまった。
今思い返せば同じテーブルにいた人はおろか隣席の人たちすらドン引きするようなレベルだった気がする。僕はメンバー一人一人の来歴から愛煙しているタバコの銘柄、ひいては彼らの好きな食べ物まで、ほとんど間を置かず一気に捲し立ててしまったのだ。周りが引くのも無理はなかった。
僕は一通り喋り終えて正気に戻ると一気に恥ずかしさが込み上げてきた。それからはその羞恥心を誤魔化すかのように手当たり次第にグラスを空けた。もともとそんなに酒に強いわけでもないのにそんな事をしたものだから僕はすぐに泥酔状態になり、一軒目を出たあとすぐ「とにかく帰れ」とタクシーに詰め込まれてしまった。本当は楽しい会になる予定だったのに僕は早々に離脱させられてしまったのだ。
その原因となったのは間違いなくこの目の前にいる男だ。こいつのせいで僕は一人で便器を抱えて寝る羽目になったというのに、本人はしれっと最後まで参加してやがる。全く許せないな、と僕は改めて不機嫌を顔に出した。
「なんだ、まだ二日酔いなのか」と黒滝は僕の顔を覗き込むように聞いてきた。そんなわけがあるか、僕はお前にイライラしてるんだと思いながら口には出さず「まあね、少し」とだけ答えておいた。
「ていうか、何の用なんだよ。わざわざ家まで来やがって。話があるとか言ってたけど」と、僕はこれ以上昨日の話を続ける事はうんざりだと思い、話題を変えるために質問をした。
「うーん、まあな。なんていうかさ、まあ話はあるっちゃあるんだけど…」先ほどまで調子の良かった黒滝の歯切れが急に悪くなった。
「なんだよ。言えよ、気になるから」
「それがな、夕張先輩の事なんだけど」
僕はなぜかどきりとした。つい先ほどまで、ちょうど先輩が置いていった本を見て思い出に耽っていたからなのかは分からなかった。
「先輩がどうしたんだよ」僕は平静を装って答える。
「お前、あの人が今どこにいるか知らないか?」
「それは僕が知りたいくらいだよ」
「なんだよ、お前弟子なんじゃないのか?」
「そうだけど…」今度は僕が言い淀んだ。
「お前が知らないんじゃ誰も知らないだろうな、師匠なのに弟子に行き先も伝えないなんてひでえなあ」
僕はなぜかその言葉が頭にきた。自分の事を言われているわけではないのに、腹が立ってきたのだ。
僕はそのイライラを隠しながら「おい、先輩の事、悪く言うなよ」と努めて優しく言った。しかし、どうやら僕のその言葉は自分が思っていたよりも語気が荒かったらしく、黒滝は急にシュンとなってしまったと思うと真面目に謝り出した。
そうなると今度はなんだか僕の方がバツが悪くなってしまって、「いや、僕もムキになってすまなかった」などと口走ってしまった。なぜ僕が謝っているのかは分からないが、別に喧嘩がしたいわけでもないので仕方なく許した。
それからしばらく変な空気になったが、僕はやはり先ほどの事が気になってなぜ先輩に会いたいのかと問い詰めた。
しかし、その理由が「昨日の飲み会で新入生に先輩の話を自慢気にしてしまったせいで「ぜひその先輩に一目会いたい」という事になってしまった、だから引っ込みがつかない」というなんともどうでもいい話だったので黒滝を責めるのも馬鹿らしくなってしまった。
僕は黒滝のあまりのくだらなさ加減に呆れ、奴に対する怒りは昨日の分も含めてどこかに消えていってしまい、それからはまた他愛のない話をして、近くの牛丼屋で夕食を二人で食べた。
「じゃあな。また、学校で」と黒滝が原付に乗ったまま振り返った。
僕は「ああ、おやすみ」とだけ言って部屋に帰った。エンジンの音が遠ざかっていくのを聞きながら少し寂しさを覚えてしまう自分が恥ずかしくなった。
僕は黒滝に出した麦茶のコップを片付けてから、畳に座った。窓の外はとっくに暗くなっていた。
なんだか少し疲れていたが、人と話したせいか頭はスッキリとしていて、少し空いた窓から入ってくる春の風が心地よかった。少し伸びをしてから、僕はまた本を読み始めた。
2
『私、烏江くんってもっとちゃんとした人なんだと思ってた』目を開けた。夢だ。また同じ夢を見てしまった。あれから二週間が経っていた。あの飲み会ではっちゃけた夜の次のサークルで同級生に言われた言葉が、思いのほか僕には堪えたらしい。しかし同じ言葉を、いくら夢とは言え何度も聞かされるのは心地いいものではない。僕は毎度その言葉にハッとして目を覚ましてしまうのだ。せっかく早寝をしたとしてもこれではかなわない。いや、本当に僕が聞きたくないのはその後に続いた言葉なのだ。「夕張先輩の弟子なのにね」そうだ。覚えている。いくら夢で続きを聞かなくとも、忘れることのできない言葉だった。
僕が先輩の弟子であることはサークル中にはもちろん知れ渡っていた。先輩同級生問わず、皆が認識していたのだ。しかし僕は先輩ほど優秀ではなかったし、「なぜあんな奴が夕張さんと一緒にいるんだ」と思われているのも薄々勘づいてはいた。
先輩のことを尊敬している人が多くいることは知っていたし、僕がそんな先輩に見合わないということは自分でもよく分かっていた。だからそういう目を向けられる時はなんとも肩身が狭く、引け目を感じていた。
しかし先輩はそんな僕の悩みなどどこ吹く風といった様で、「堂々としていればいいさ」と言わんばかりであった。先輩にそんな態度を取られているうちに僕自身もだんだんどうでもよくなってきて、周りの目は気にならなくなっていた。
それでも、先輩がいなくなってまでまさか「弟子なのに」なんて言われるとは思っていなかった。いや、むしろ今の方が先輩と比較される状況であるという事に、なぜ今まで気づかなかったのだろうか。つまり、去年まで僕はただの「先輩と一緒にいる弟子と呼ばれている奴」にすぎなかったのが、師匠たる先輩が不在の今僕は先輩から何かを継承した存在だと見られているのだ。
しかし実際のところ僕が先輩から継承したのは山の様な本くらいであって、課題を手伝ってもらったこともなかったし、飲みに行っても自分のことをあまり語らない先輩からは面白い話は聞けても深い話をした記憶はない。
つまり僕は何ももらってないにも関わらず、「夕張先輩」という大きなものをいつの間にか背負わされていたのだった。
嫌な夢のせいでまたやけに早く目覚めてしまったな、と思い時計を見ると針は5時半を指していた。一限まではまだ時間があるし二度寝をしてもいいかなと思ったが、急に飛び起きたせいか目が冴えていて、とてもじゃないがもう一度眠りにつける気分ではなかった。
僕は仕方なく布団から出て起きることにした。朝食代わりの牛乳を流し込んで、軽くシャワーを浴びてから外に出た。かなり時間は早いが、これ以上家にいると結局行くのがめんどくさくなってしまう気がして、とにかく家から出ることにしたのだ。
起きてから一時間くらいが経っていて、あたりは完全に明るかった。朝の陽気が心地よく、少し風はあったが春の日差しが暖かく降り注いでいた。学校へは徒歩で20分ほど。いつもは自転車で通る道を、ちょうどいい散歩になるな、と思いながら歩き始めた。
まだほとんど人がいない住宅地をいつもよりゆっくりとしたペースで歩いていると、ついこの間まで先輩とよくしていた散歩を思い出した。それはいつも突然で、休みの日にいきなり電話がかかってきて「〇〇に行こう」と言われて始まる時もあれば、飲み会の帰りに先輩の「少し歩こうか」という一言から始まることもあった。
歩いているときは、なんとなくいつもより会話がしやすい様な気がした。特にあてもなくブラブラとする目的地のない散歩は普段よりもゆっくりと歩くせいかなんだかのんびりしていて、他愛もない話がしやすかったのかもしれない。
この前の1月の終わりだっただろうか。その日も僕は先輩と歩いていた。仲間内で開催された飲み会の帰りに、偶然先輩と出会ったのだ。もっとも、大学に一番近い飲み屋街である「富士通り」は規模が小さく、その通りで知り合いに出会うことは特段珍しいことでもなかった。
僕が居酒屋を出て外の寒さに凍えていると、数軒先の居酒屋の前で一人タバコを吸っている先輩の姿が見えた。先輩はふとこちらを見て僕の姿を認めると、軽く手を挙げて「やあ」と声を出さずに言った。僕は小さく会釈をして、ちょっと待っていてくださいというジェスチャーを返し、次々にぞろぞろと出てくる友人たちの方に向き直った。先輩は「分かった分かった」という風に頷き、またタバコを吸い始めた。
二次会に行く者、帰る者、それぞれに軽い別れの挨拶をしてから先輩のところへ行った。「師匠が待ってるぞ」という冷やかしを背中に聞きながら小走りで数メートル先の居酒屋の前の灰皿に向かった。
先輩も別の飲み会の帰りだったらしく、少し酔っている様だった。といっても先輩は酒に強く、酔っ払ってやらかしたなどの噂は聞いたことがなかった。だから酔うと言っても、いつもより、––元から饒舌な人ではあったが––よく喋り、声が少し大きくなる程度であった。
「あまり飲みすぎない方がいいぞ。顔が赤い」と、先輩は言った。
「先輩だって飲んでるじゃないですか」
「私はいいんだ、酒に強いからな」
「僕だって最近は全然酔いませんから大丈夫です」
先輩は笑った。僕の顔がよほど赤かったのか、それとも酔っていて呂律が回っていなかったのか、「酔ってないわけがないだろう」とでも言いたげだった。
笑われたことに少しむっとしていると先輩は「悪い悪い、あまりにも典型的な酔っ払いの喋り方だったものだから」とまだ笑いながら言い、「少し歩こうか」と続けた。
僕はなんだかまた先輩のペースにもってかれてしまっているなと思いながら「まあいいか」と思って素直に従った。悔しいが確かに酔いは回っていた。
「今年は暖冬になる」とは言われていたが、それでも一月の夜はどうしたって寒い。僕は安物のコートを上まで閉めてポケットに手を突っ込んで歩いた。先輩は今日もいつも通り着物で、果たしてこの人には寒いという感覚はないのだろうかと不思議に思った。
先輩は道に詳しかった。最初に下宿の場所を聞かれた時に町の名前を言っただけですぐに「ああ、あの神社の近くだろう」と言われて驚いた記憶がある。
だからいつも散歩のコースを決めるのは先輩で、僕はただその後をついていくだけだった。ひたすら言われるがままに歩いているといつの間にか僕の知っている場所に出るという感覚は少し不思議だった。
あの日も僕は先輩が迷いなく進んでいく道を、そこがどこなのかも分からないまま歩いていた。
富士通りを外れてからしばらくして、僕はふと思ったことを聞いた。
「先輩は来年からどこに行くんですか?」
僕は先輩が就職するという話も進学するという話も聞いたことがなかった。噂程度でも流れないということは「誰も知らない」ということなのだろう。
「そうだなあ、君には言えないな」と先輩は言った。
僕はまた少しむっとしたと同時に、悲しくもなった。たとえ他の人には言えないとしても、弟子である自分にはそれを知る権利があると思っていた。もし「口外するな」と言われればそれを破るつもりもなかったし、どうしても知りたいというわけでもなかったが、隠される筋合いはないと思った。
「じゃあいいですよ、もう聞きませんから」と僕はムキになって言い放った。
てっきり先輩はいつも通り全く気にしていないぞという風にふわりと躱すのだろうと思っていたが、「すまないね」と言ってから黙り込んでしまった。
その様子がいつになく落ち込んでいるように見えて、逆に僕が焦ってしまうほどだった。僕はなんだか居た堪れない気持ちになり「僕の方こそすみませんでした」と言って、早く話題を変えようとしたが次の言葉が出てこなくなってしまった。
それからしばらくは二人とも無言で暗い住宅街を歩いた。遠くに聞こえる幹線道路の車の音や、家々から漏れ聞こえる話し声が静寂の中でやけに目立っていた。
「本は、読んでいるかい」
先輩は静かに口を開いた。
「あっ、いえ、あの、読もうとは思っているんですけど」と僕は急にされた予想外の質問にしどろもどろになりながら慌てて答えた。焦っていたせいで言葉を濁すこともできずについ本当のことを言ってしまった。
「そうか」と先輩は少し残念そうに呟いた。
続けて「本というのは無理に読むものでもないのかもしれんな」と言った。
僕はなんともバツが悪くなってまた「すみません」と誤った。
「いや、謝ることじゃない。気にするな」と先輩は言ってくれたが、僕はやはり申し訳ない気持ちのままだった。
それからどこをどう回ったのか僕には分からなかったがまたしばらく歩いて富士通りに帰ってくるまではまた他愛のない話をした。僕は話題に困るといつも好きなバンドの話ばかりしていたのだが、他の人が途中で飽きてしまう中先輩だけは「興味深いな」と文句ひとつ言わず聞いてくれていた。
元の居酒屋あたりまで戻って先輩と別れた。「一服だけしていくよ」と灰皿の前でタバコに火をつけたところで、「じゃあまた」と言って僕は下宿へと向かった。
なんだか振り返るのも恥ずかしい気がして、前を向いて歩いた。白く酒臭い息が目の前で消えた。
その日から先輩は僕の部屋に本を持ってくるのをやめた。僕はなんだか申し訳ない気持ちと、本を読まなくてはいけないプレッシャーから解放された気持ちが半々くらいの複雑な心境だった。
確かに定期的に届けられる本たちが僕の部屋を狭くしていたのは事実だったが、それが急になくなってしまうとどこか寂しいものだな、と僕は自分の都合のよさと自分勝手さに呆れた。
それでも二週間に一回くらいのペースで「よし、読もう」と思いページを開く事もあった。もちろん、そんな心持ちでは一向に話は進まず、結局は一冊も読み切る事はなかった。
しかし、本が届かなくなったからといって僕と先輩の間柄は変わらなかった。別にそれまで通りに突然呼び出されたりもしたし、飲みにいく頻度が落ちることもなかった。だから僕もそのうちに本の事は忘れて、普通に過ごす様になった。
それから何事もなく二ヶ月が経った後に、僕の下宿に突然先輩がやってきた。それが、今からすれば最後に先輩に会った日になってしまったのだが、当時の僕には知る由もなかった。「いつも通り」先輩が来ただけだと思っていた。
寒さがだいぶ収まって、日中はコートが必要なくなってきた三月の終わりだった。春休みに入ってもすることがない僕はただ家の中で惰眠を貪っては何度も読んだ雑誌を気まぐれにめくり、それに飽きたら近くの喫茶店に行くというような毎日を過ごしていた。
その日も僕は昼頃に目を覚まして、インスタントコーヒーを飲みながら「最先端ファッション特集」と書かれた雑誌を眺めていた。一年ほど前に発行されたその雑誌の中身はおよそ最先端と呼べるようなものではなかったが、暇つぶしには丁度よかった。午後の日差しが暖かく、窓を少し開けて春の匂いを感じながら僕はすでに飽きるほど見たはずの特集記事をパラパラとめくっていた。
インターホンが鳴って、僕はのそのそと体を起こした。宅配便が届く予定もないとなると平日の昼間から僕の下宿を訪ねてくるような人は黒滝か先輩かの二択しかない。僕は何も警戒せず、玄関へと向かった。
鍵を開けると、先輩が立っていた。いつもと同じ着物姿で片手を挙げた。
「おはよう」
「おはようございます」
「元気かい?」
「はい、何もしてないので。すこぶる元気です」
「そうか」
先輩は何かを言い淀んでいる様子だった。それに、なんだかとても疲れているように見えて少し心配になった。僕よりだいぶ背の高いはずの先輩が心なしか小さく見え、何か声をかけたかったが気の利いた言葉が出てこずに僕は黙ってしまった。
しばらく気まずい沈黙が続くと僕は耐えられなくなって「あ、上がってください。今片付けます」と慌てて口を開いた。
「いや、いいんだ」先輩は手で制しながら言った。
今まで先輩がうちに来て玄関で帰ることなどなかった。僕は余計に心配になってしまって「コーヒーもあります」だの「飯でも作ります」だのと口走ってしまったが、先輩は首を横に振るだけだった。
僕がいよいよ言葉に詰まると、先輩は「君にこれを渡したくてね。突然押しかけてすまなかった」と一言だけ呟くように言って僕に文庫本を差し出した。
いつもであればそこから先輩による「あらすじと感想」が始まるのだが、先輩は何も言わず微笑むだけだった。
僕は先輩が次に紡ぐ言葉を待っていたが、先輩は何も言わなかった。
また短い沈黙が僕の家の玄関を包みこむ。目の前の道路で自転車のブレーキをかける音が大きく響いて僕らの前にある静寂を切り裂くと、まるでそれが合図であったかのように先輩は一言「それじゃあ。また会う日まで」と言って背中を向けて歩き出してしまった。
二、三歩歩いてから先輩は思い出したように足を止め、首だけをこちらに向けて「君はまだ私の弟子なのだからな」と言い、また前を向いて歩き出した。先輩が次に振り向くことはなかった。
僕は咄嗟のことに驚きを隠せないまま固まってしまった。追いかけなくてはいけない。そう思っているはずなのに、体が動かなかった。「あっ」という短い声だけが辛うじて喉の奥から鳴ったが、その声は先輩には届かずにただ虚空に消えていくだけだった。
僕はしばらく先輩の後ろ姿を見つめていたが、角に差し掛かって背中が見えなくなるとようやく我にかえったような気持ちになった。
たくさん言いたいことがあったはずなのに、結局言葉は出なかった。しかし僕は「また近いうちに会えるはずだ」と思って自分を納得させた。
それきり、先輩は姿を消してしまった。
その時に渡された本こそが、この間僕が読み耽ってしまった一冊なのだった。
結局あの日黒滝が帰ってからも続きが気になってしまった僕は、日曜日であるにもかかわらず夜更かしをして読み切ってしまった。
最後の一行を読み終えて本を閉じてからようやくそれが先輩に渡された最後の一冊であることに気づいた。表紙がやけに印象的で、渡された時に軽く眺めただけであったのにも関わらず思い出したのだ。
僕は続けて他の本も読み始めようと思ったが、結局次の一冊には手をかけられないまま日が過ぎてしまった。だからいまだに文庫本の山はそのままになっていて、どこかに売ることもできずに部屋を狭くしている。
随分早く大学に着いてしまったせいで僕はすることがなくなって、ぶらぶらとキャンパス内を歩くことにした。
グラウンドの横を通ると運動部が朝練をしているのか声が聞こえる。バッティング練習なのだろうか、バットの芯にボールが当たる心地よい高音が何度も辺りに響き渡った。
僕は近くのベンチに座って、なんとなくその光景を眺めることにした。
思えば不思議な一年だった。最初は友人ができるかどうかも不安だったのに気付けばそれよりも先に師匠に出会っていたし、趣味も何もない僕でもサークルに入ることができた。思い描いていた大学生活とは少し違うのかもしれないが、僕はそれでも–––少なくとも満足はしていた。
正直、特筆するような事件のようなものも起こらなかったし、成績についても僕は平均的で、面白いことは何もなかった。それでも新しい人との出会いは新鮮であったし、楽しくもあった。
目の前で必死にボールを追いかけている人たちのような必死になる毎日を送っているわけではないけれど、それなりに刺激的で、それなりに平穏な日々だった。そんな日々が続けばいいと思った。
***
「烏江くん?」
ぼーっとしていた僕は、突然自分の名前が呼ばれたことに驚いて咄嗟に顔を上げた。朝が早かったせいか、少しうとうとしていたらしい。
気づいたらグラウンドでは練習が終わっていて、打球音はトンボをかける音に変わっていた。
「寝てたの?」と彼女は笑いながら言った。同級生の御影(みかげ)だった。
「いや、ぼーっとしてただけだよ」
「嘘だ!しっかり船漕いでたよ」とまた笑った。
僕はムキになって「仕方ないだろ、朝早かったんだから」と返したが、すぐに失敗した、と思った。
案の定「なんで?なんか用事でもあったの?」と聞かれてしまって僕は答えに詰まってしまった。
まさか「悪夢を見たせいで早く起きただけだ」なんて、ましてや「その原因はあなたです」なんてことは口が裂けても言えない。
そう、彼女、御影こそが僕に「夕張先輩の弟子なのにね」と言ってのけた張本人なのであった。
御影はサークルが一緒なだけでなく、学部も一緒だった。まさに「活発」という言葉が似合うような雰囲気を身に纏っていて、なぜ「全国神社仏閣愛好研究会」なんていうサークルに属しているのか不思議なくらいだった。
高校では運動部に所属していたらしく、体を動かすことが好きだと言っていた。短めの髪を後ろで纏め、夏になると日に日に肌が小麦色になっていくような、つまり僕とは真逆のような性格の持ち主だ。
「別に。たまには早起きでもしようかと思ってね」と曖昧な返事を返してから、それ以上の詮索を避けようと「御影こそ何してるんだよ」と話題を変えた。
彼女は特にその質問を怪しむこともなく答えた。
「なんか野球部のマネージャーが足りないらしくて。友達に頼まれて手伝ってるんだ。ほら、もともと私もスポーツやってたし、見るのも好きだから」
なるほど確かに彼女はジャージに身を包んでいて、その出立ちはまごうことなきマネージャーだった。彼女もまた夕張先輩に勝るとも劣らないほど顔が広いため、マネージャーの友人がいるのも頷けた。
「でも、高校はバレー部だったって言ってなかったっけ?」と僕は前に聞いた話を思い出しながら聞いた。
「そう。でも私の家、男はみんな野球少年だったから。お父さんは少年野球のコーチしてるし、お兄ちゃんも弟もずっと野球部でよく見に行ってたしね」
「そうなんだ」と僕は相槌を打って自分も昔少しだけ運動部に所属していたことを思い出した。結局続かずに辞めてしまっていたが、今ではそれを少し後悔していることも。
「実は僕もスポーツやってたんだ」と言おうと口を開きかけたが、それより先に御影の口が動いた。
「烏江くんは?元気?」
「まあね、ていうかこの前サークルで会ったばかりじゃないか」
「そっか。そうだよね。だけどなんか今日の烏江くん、疲れてるように見えるから」
「そうかなあ、別に何かあったわけじゃないんだけど」
「何もないから、じゃない?」
「どういうことだよ」と僕は笑いながら聞いた。
「だから、ほら、去年までだったら先輩に連れまわされていろんなところに行ってたでしょ?でも今年はそれがないわけだからさ、そのギャップに体がついていってないんじゃない?」
「いやいや、あんなのはもう沢山だよ。散々歩かされて大変だったし」と僕は本音半分、照れ隠し半分で返した。
「ううん、きっとそうだと思うよ。そうだ、野球部にでも入ったら?」と彼女は歯を見せて冗談を言った。
僕は「それなら4番サードで頼むよ」と冗談を返した。
彼女は「あはは、じゃあ監督に直談判してね」と笑った後に、急に真面目な顔になって続けた。
「でもさ、野球部に入るのは冗談だとしても、何か始めた方がいいよ。そうだ、それこそ夕張先輩とはどうしてるの?」
「また先輩の話か」と僕は些かうんざりしながら言った。
「卒業してから会ってないの?」
「うん、だって連絡先もわからないし。御影こそどうなんだよ」
「弟子の烏江くんが知らないのに私が知る訳ないじゃない。でも、先輩はきっと烏江くんが会いに来るの待ってると思うよ。なんとなくそんな気がする」
「そうかな」
「うん、絶対そうだと思う。だから会いにいってあげなよ。神隠しにあったわけじゃないんだし、探せば見つかるよ」
「そりゃそうだけど…」と僕がそれ以上の反論をできないでいると、彼女は腕時計を見て「あっ!もうこんな時間じゃん!私一限なんだ、着替えなきゃいけないからもういくね!じゃ、またサークルで!」と早口で言うと駆け足でどこかへ行ってしまった。
なんだかどっと疲れたような気がした。それは無駄な早起きのせいだけではなかった。きっと、御影に言われたことが図星だったのだ。
確かに、今年度に入ってからは突然呼び出されることも、急に人が家に押しかけてくることも無くなった。かろうじて黒滝がたまに現れるくらいだが、奴と会ったとて何があるわけでもなかった。
「なんとなくそんな気がする、か」とつぶやいて、ベンチから立ち上がった。時刻を確認すると御影が言ったとおり一限の開始までにあまり時間はなく、辺りに人はいなくなっていた。
***
「それで、あの教授なんて言ったと思う?「これはレポートではありません、感想文です」だってよ。俺が一晩中かけて仕上げた渾身の3000文字をだぜ?信じられるか?全く、あのおっさん分かってねえよ」
「まあまあ、落ち着けって」
「これが落ち着いてられるかよ。俺は今期の成績にかかってんの、優秀な烏江くんとは違ってギリギリなのよ」
僕は「知らねえよ」と言いたいのをぐっと堪えて「まあ、教授も色々あるんだろうしさ」となだめる方に舵を切る。
目の前の黒滝はさっきからずっと教授の文句ばかり言っている。成績がギリギリなのは自業自得なのだが、それよりも自分が書いたレポートが評価されなかったことがよほど気に食わないらしい。
僕は今日の寝不足を解消するために、授業が終わるとさっさと学校を出ようとしたのだが、その時に後ろから来たこいつに捕まってしまった。それから富士通りの居酒屋に連れてこられてしまったのだ。
「でもそれはあっちの都合だろ?大体あんな言い方あるかっての。俺だって俺なりに頑張ったってのに。あ、お兄さん!生おかわり!」
「どれだけ飲んだって単位はもらえないぞ」と僕は諭すように言った。この男の愚痴を聞くのはもうとっくに飽きていた。
「うるせえな、今日は飲みたい気分なんだよ」
「いつもそう言ってるじゃないか」
「仕方ないだろ、いつもそうなんだから」
僕はこのくだらない言い争いにウンザリしながらも、軽口を叩きあえるこの関係を嫌ってはいなかった。おそらく黒滝もそう思っているだろうし、お互いに「特に何も喋ることもないがなんとなく喋りたい」というだけで毒にも薬にもならないどうでもいい話をする時間が欲しいのだろう。
実のところ、黒滝とは夕張先輩よりも長い付き合いだ。と言っても、さほど変わりはないのだが。
奴と初めて顔を合わせたのは入試の日だった。偶然、席が隣になってしまっただけなのだ。僕の奴に対する第一印象は「関わりたくない」だった。
黒滝は見た目が少しいかつく、背も僕より幾分か高くガタイもいい。ツーブロックにした髪型はその体型の威圧感を数割増しにしており、初対面だったら100人中100人が間違いなく警戒するタイプだ。
そんな奴が隣に座ってきたせいで僕は入試に対するものとはまた別の意味で緊張していた。
「お隣さん、よろしく」
それが黒滝の第一声だった。僕は早速警戒レベルを一段階上げた。もともと自分から人に声をかけるようなタイプではない僕に対して「初手、タメ口」は明らかに悪手であった。
「あ、はい…」としか返せなかった僕に対して、黒滝は攻撃の手を緩めなかった。
「隣だからってカンニングはしないでくれよ」とニヤつきながら言った。
今でこそ奴の答案など覗き見たところでなんの意味もないということがわかるが、当時の僕はそれを真に受けて「よほど自信があるんだな、相当勉強してきたのだろう」と思っていた。
しかし僕はとにかく関わり合いたくないその一心で、ほとんど無視に近い形で「はあ…」とだけ答えた。
試験が終わると僕はそそくさと荷物をまとめ、これ以上このいかつい兄ちゃんに絡まれるわけにはいかないと逃げるように出ていったのだが。
「おーい、待ってくれよ」
正門を出る直前、僕は背中にその特徴のある低い声を聞いて文字通り固まってしまった。
まさか、僕のことじゃないよな、と思って振り返るとそこには満面の笑みで片手をあげながら小走りでこちらに走ってくる黒滝がいたのだ。それから、なぜか2人で近くの喫茶店に入ることになってしまい、彼が矢継ぎ早に繰り出す言葉を聞く羽目になった。
しかし、よくよく話してみるとそこまで悪いやつではないらしく、ツーブロックも調子に乗って初めてやってみたはいいものの自分でも見た目がいかつくなってしまって困っているなどと言っていて、中々面白いやつだなと思った。
その日は「それじゃあ、また入学式でな」と奴はまだ結果も出てないのに合格する気満々で手を振っていた。
しかし入学式の日に奇しくもまた正門で出会ってしまい、僕が「うわあ…」と思っているのを尻目に「おお!お互い合格なんて奇跡だな!よろしく頼むぜ」と失礼な感動の仕方をしていた。
それからというもの、お互い大学で唯一の知り合いだったためか入学直後のオリエンテーションなど諸々を一緒にこなすうちにいつの間にか現在のような間柄になってしまっていた。
黒滝というのは本当に不思議な男で、出会った時と本当に何も変わらず同じままで僕に接してくる。対して僕は段階的に少しづつ警戒を緩めていって、ようやく今ではこのように奴を窘めることができるほどになった。
「御影ちゃんはどう思うよ?」と黒滝が聞く。
そう、この飲み会–––という名の黒滝の愚痴大会ではあるが–––には御影も参加していたのだ。
おそらく僕よりも朝が早かったはずの御影だが、黒滝はそんなことは知らないといった風で帰りがけに捕まえて連れてきた。しかし御影は別に嫌がるわけでもなく、純粋に飲み会が楽しみで仕方ないという顔でむしろ進んで参加している。
黒滝は他にもサークルの仲間を何人か集めたようで、気づけばそれなりに規模の大きい飲み会になっていた。人数の問題もあって2テーブルに分かれた我々は4人がけのテーブルに僕、黒滝、御影の3人で座っていて、6人がけのもう一つのテーブルに他の面々といった形である。
こちらのテーブルがただ「黒滝の愚痴を聞く会」になっているのに対し、隣では大学内の恋愛事情について熱く語っている。僕はそれを羨ましく思い、片耳をそちらの会話に向けながら黒滝の言葉になんとなくで返しているだけだった。
「私は、黒滝くんのレポート読んでないし、わからないよ」と御影は至極真っ当な意見を黒滝にぶつけた。
「確かに、それもそうだな。よし、まず最初の章はだな…」黒滝がそこまで言いかけたところで僕は咄嗟に「やめとけ」と言った。いくら今日は奴の愚痴を聞く覚悟ができているとはいえレポートの内容を解説されてはたまらない。
「分かったよ、やめとくよ…」と黒滝は釈然としない様子だったが意外と素直に諦めた。「でも、いいレポートだったと思うんだけどなあ」と今度は急にシュンとしてしまった。ガタイの大きい黒滝が小さくなっているのは少しおかしかった。
「今度読むからさ」と御影は冗談なのか本気なのか分からない口調で呟いた。
「ほんとにぃ?」黒滝がなんとも気持ちの悪い声で聞き返している。
「いいよ、読まなくて」僕はその声に少しイラつきながら言う。
「それよりも、読むなら面白い本があるんだよ」と僕は苦し紛れに話題を変えた。しかし、面白い本があるのは事実だった。
「それ、本当に面白えのか?なんか普通の話っぽいけどな」
「うーん、私もなんだか前にそんなような本を読んだような気がしちゃう」
あらすじを伝えたところで、二人の反応はイマイチだった。もちろん僕の伝え方が下手だったのもあるだろう。しかし、二人とも僕の思った以上に「興味なし」という顔をしていて、僕はわかりやすく落胆した。
そんな僕の様子を見かねたのか、「その本、どこで見つけたの?」と御影がフォローしてくれた。
僕が本は夕張先輩が最後に置いていったものだと告げると、先ほどまで完全に次の話題を探していた二人が急に前のめりになった。
「え、じゃあそれ先輩が最後の置き土産として渡したってこと!?」
「お前なんでそれを先に言わねえんだよ」
今度は先ほどとは別の類の非難が飛んできた。
「いや、なんか先輩のって言うとみんな気にしちゃうかなって…」と僕がよく分からない言い訳をすると「当たり前でしょ!」と御影の返しもよく分からなくなってしまった。
「とにかく、それなら読むよ」と早速手のひらを返す御影。対して黒滝は何も言わない。それもそうだ、黒滝は僕以上に本を読まない男なのだ。
僕はなんだか夕張先輩の名前を借りているようで少し恥ずかしいやら悔しいやら釈然としない心持ちであったが、それでも読んでくれるならいいかとも思った。
3
サークルの日になった。僕はあの飲み会の翌日に早速御影に本を貸した。
「なんか、面白い表紙だね」と御影は呟いてから「じゃあ、借りるね」と微笑んだ。それからほぼ一週間が経っていた。
僕は今日に限ってあまりサークルに行きたい気分ではなかった。なんだか億劫だったし、正直なところ御影に会うのが少し不安だった。その不安が本の感想を聞くことに対するものなのか、またしても先輩の話をするであろうことに対してのものなのか、はたまたそのどちらでもないのかは分からなかった。
しかし気乗りしないからといってサークルを休む気分にもなれなかったので、僕は些か重い足取りでいつもの部屋に向かった。途中、黒滝とどこかで合流することになるかとも思ったが、そんなことはなく一人で足元を見つめながら歩いた。
部屋に入るといつもの光景が広がっていた。ホワイトボードにはインターネットから拾ってきたと思われる画像がプリントアウトされて磁石で貼り付けられている。中央に置かれたテーブルの上には何冊かの本が置かれているが、それらは「カッパ名鑑」や「妖怪の正体」などのなんともいえないものばかりだ。先輩が卒業してからというもの、このサークルにやってくる文献はどれもこれもロクなものではなくなってしまった。頻繁に顔を出すわけでもなかった先輩が、実は一番このサークルに貢献していたと気づくのは、先輩がいなくなってからだった。
僕はため息にならないほどの大きさでゆっくりと息を吐き、空いている椅子に腰掛けた。
それとほぼ同時に、部屋のドアが勢いよく開いた。そこにいたのは御影だった。走ってきたのか、肩で息をしている。
ドアの大きな音に反応して室内にいたメンバーは全員が一斉に音の出どころに向けて視線を送っていた。僕も例外ではなかった。
御影は集まった視線の中から僕を見つけると呼吸がまだ整っていないせいかやけに大きな声で言った。
「烏江くん!京都!京都だよ!」
入り口に向かっていた視線が一気に、今度は僕へと向けられた。御影は突然のことに訳がわからず間抜けな顔をしている僕の元へと早足で近づいてきて何やら捲し立てた。
僕はなんとか平静を取り戻し、御影をなだめながら他のメンバーに気にしないでくれと告げ、落ち着いて話を聞くことにした。
御影が言うところによると、夕張先輩は京都にいるのだそうだ。彼女はその根拠を嬉々として語った。
「まず、舞台が京都のお話でしょ、これ。それに学生が主人公。先輩と同じで留年してて、」
「ちょっと、ちょっと待ってよ。確かに舞台は京都だけどそれだからって先輩が京都にいるってことには…」
「まだ途中だから。最後まで聞いて。とにかく、京都の学生が主人公で、彼はいつも着物を着てる。それだけじゃない。よくわからないサークルに入ってる、ほら」御影はそこまで言って、部屋の中が急に静かになったことに気づいたのか、「いや、まあうちのことじゃないけど」と誤魔化しにならない誤魔化しをした。
「御影、ここはよそう」と僕は声を潜めた。
「…そうね」と僕らは仕方なく部屋を出て近くの空き部屋に入って話を続けた。
「確かに御影が言ってることはわかるよ。僕だって初めて読んだ時にあまりにも先輩と主人公が似てるもんだから驚いたんだ。でも、だからって先輩が今京都にいるなんて、そんな…」
「分かってる、重要なのはそこだけじゃないの。大事なのはこの傍線たち」
確かに、この本には至る所に傍線が入っていた。しかし先輩が置いていく本はどれも同じくらい傍線が入っていて、今更気にするようなものでもなかったのだ。
僕がいつまでも本のタワーを持て余している理由の一つもその大量の傍線たちで、流石にこれでは売れないだろうと思っていた。
「でも、他の本にも傍線なんてたくさん引かれてるんだよ」と僕が言うと、御影は「共通点!」と叫んだ。
「共通点はないの?その傍線たちに」と僕に聞いた。
「え、いや、特に感じたことはなかったな。ていうか全部読んでるわけでもないし…」
「読んでないの!?」怒られた。しかし無理もない、御影は運動だけでなく勉学にも長けているので、本を読むことなど造作もないのだろう。だから貰った本を読まないなどということは彼女にとってありえないことなのだ。
「まあいいや。とにかく、一番重要なのはこの傍線たち。正直、さっきまで言ってたことなんて霞むくらい」
「そうなのか」と僕は気の抜けた返事をした。御影は、僕が事の重大さに気づいていないことに多少苛立っているようだった。
「簡潔に言うね。これは手紙だよ。それも烏江くん宛の」僕は黙って彼女の言うことを聞くことにした。
「なんのことはない簡単な暗号、いやこれはもう暗号ですらないかな。ただの遊びみたいな、ただ周りくどいやり方」
「なんだよ、もったいぶらずに言えよ」僕は痺れを切らして御影の顔を見た。
「ごめんごめん、じゃあ答えを言うね」
***
夕張先輩は、今思い出しても不思議な人だった。うまく形容することができないが、強いて言葉にするとすれば先輩の周りには、常にオーラがあった。
もちろん常に着物姿でいる先輩は、それだけである種独特の雰囲気を放っていたのだが、むしろその着物すらも、溢れ出る先輩のオーラを中和するための道具であるような気がした。
その立ち居振る舞いからか、言葉遣いからか、前髪をかき分ける仕草からか、それとも全部か。先輩の一挙手一投足に、全て意味があると思えた。
会うたびに毎度初対面のような新鮮な気持ちにさせ、それでいてどこか懐かしさを覚えさせるような。ふわふわとしているようで、足元は決して揺らがないような。いや、もしかしたら先輩を言葉で表そうとすること自体がもう無粋の極みなのかもしれない。
そんな人だった。
しかし、先輩は自分のことだけは語りたがらなかった。他の事、例えば道を歩いていて目に入った花のことや、流行りの映画の話、スポーツの話など、なんでも饒舌に語るくせに、自分の身の上や感情を語ることは極端に嫌がった。
だから、僕は先輩の出身地も知らないし、先輩の食べ物の好き嫌いすら知らない。僕の前ではなんでも食べるし、酒の種類だって固定されてなかった。
だから、先輩が京都に対して憧れがあるなんて事は知る由もなかったし、先輩はそれをおくびにも出さなかった。改めてすごい人だと思うと同時にその完璧なまでの底の知れなさに一抹の恐怖心を抱いた。
それでも一つだけ分かることと言えば、先輩は本が好きだということだ。少なくとも嫌いではないはずだ。休日に呼び出されては古本屋巡りに付き合わされたこともあったし、「すまないが手伝ってくれ」と言われて二人で両手に大量の本を抱えて先輩の下宿まで運んだこともあった。
すでに山のように本があるというのに、それでも足りないということは相当なペースで次から次へと読破しているのだろう、と思っていた。
だから傍線も最初の方は気になったが、とにかく速く、且つ内容を理解しながら読むためにそうやっているのだろうと勝手に理解して、いつの間にか僕にとって傍線は「そういうもの」としか見えなくなっていたのだろう。
そういえば先輩の下宿には結局一度も行ったことがなかった。本を運ぶのを手伝った時も、「ここでいい。ここなら盗られる心配はない」と言って途中のタバコ屋の前で別れた。
僕は別にどうしても先輩の下宿を突き止めたいというような気持ちがあったわけではないが、「とことん自分のことを教えてくれないんだな」と不思議に感じた記憶がある。
それでも「先輩のことをもっと知りたいです」なんていうのはなんだか気持ち悪い気がしたし、僕にとって何か不便になることでもなかったのでずっとそのままにしておいた。
無駄な詮索をしてもし破門でもされたら、という不安もあったのかもしれない。もちろん、先輩はそんなことはしないだろうけど。
だからある意味では、僕はおそらく「弟子」という自分の立場にあぐらをかいていたのかもしれない。そのせいでどこか「先輩は自分のことを蔑ろにはしないだろう」といったある種の慢心のようなものがいつしか生まれていたのだと思う。
結果、傍線にこめられたメッセージに気づくことができなかった。言い訳はたくさん出るが、おそらく僕はこれを自分で気づくべきだったのに、それができなかったという事実は変わらない。
間違いなく僕の力不足で、もちろん一般的に見ればそんな回りくどい方法をとる先輩がおかしいのだが、先輩と少なくとも一年近く過ごしてきた僕にはそれを言い訳にすることはできない。
それにしても、御影に気づかれるとは。前から勘の鋭い奴だとは思っていたが、まさか。
これが黒滝じゃなくてよかったな、と胸を撫で下ろすと同時に、そんな事はどのパラレルワールドでも起こることはないだろうなと心の中で笑った。
御影と出会ったのは一年生の春、つまり入学したすぐ後だった。
春の陽気に包まれたキャンパスで僕は食堂に向かって歩いていた。その時にはすでに仲良くなっていた黒滝と一緒に昼食をとる約束をしていたためだ。
食堂に入ると僕らの中で決まっていた二人がけの「いつもの席」はもう埋まっており、仕方なくその隣にあった四人がけのテーブルに腰を下ろして黒滝を待った。
いつもなら午前中の教室が食堂から近い黒滝が先に座っていて席を取っておいてくれるのだが、その日に限っては僕のほうが先についた。
そのことを不思議に思っていると、遠くから奴と思わしき歩き姿とその隣を歩く見知らぬ女子が見えた。それが、御影だった。
「わりーわりー、ちょっと長引いちまってよ。ほら、あの教授、雑談が盛り上がると止まんなくてさ」と全く悪びれる様子を見せずに黒滝が言う。
僕は黒滝が連れてきた女子に触れるか否かを迷った結果、「ああ」という間抜けな返事をしてしまった。
すると流石の黒滝も何かに気づいたようで、「ああ、そうそう。これは御影ちゃん、さっきたまたま隣の席でさ。ちょうど食堂に行くところだったらしくて」と言った。
紹介された彼女は「あ、御影です。よろしく」と言って微笑んだ。
僕は咄嗟のことに驚きつつも、「あ、烏江です。こいつの…えっと、黒滝の友達。よろしく」と言って、微笑み返した。
自己紹介のようなものが済むとすぐに黒滝が「あれ、そういや今日はいつものとこじゃなくて四人がけなんだな。それなら御影ちゃんも一緒にどうよ?」と言い、結局その日は三人で昼食をとった。
それから、なんとなく三人で遊ぶことが増えた。もちろん、御影は他のサークルにも所属しているし僕らとは比べ物にならないくらい忙しいのだが、タイミングが合えば飲みに行くくらいの仲にはなった。
御影はまさに文武両道という言葉が似合うような人で、僕らが所属しているサークルにも興味を持って–––むしろ僕ら以上に前向きに–––入会した。本人曰く「歴史には結構興味があったの。ほら、神社仏閣なんて歴史と深く繋がってるじゃない?」とのことだが、全く興味がないままなんとなくで参加している僕はただ「そうかもね」くらいのことしか返せなかった。
そんな御影も今や我がサークルを「よくわからないサークル」呼ばわりするまでになってしまったのだが。
「全国神社仏閣愛好研究会」は、主に文献調査を活動内容としていた。しかし文献調査とは名ばかりで、たまに誰かが持ってきたオカルトまがいの本を回し読みしてそれを面白おかしくまとめたものを会報誌として年に3回ほど発行するだけだ。それに年々発行部数は減少している。夕張先輩がいた時は幾分ましだったが、今年に入ってからは本格的にやる気がない。
それでも、一応は歴史の長いサークルらしくかなり古い本までが保管されている。中でも『朝解(あさどけ)なんとか』という作者が書いたシリーズは一部の層の中では有名らしく貴重なものだというが、正直に言ってその価値をわかるような人は今現在ではこのサークル内にはいないと言っていいだろう。
そのおかげで僕みたいな全くの門外漢でも堂々としていられるのだけれど。
しかし、不思議なことに黒滝に関しては意外とハマっていたりする。御影ほど歴史が好きだというわけではないようだが、もともと本は嫌いではないらしい。もっとも、本といっても陰謀論の類が主で、たびたび僕に昔読んだという「説」を語ってくる。
本人もそこまでのめり込んでいるわけではないので別に心配はしていないが、「アメリカ大統領を裏で操作している人物がいる」「世界を牛耳る闇のグループが存在する」などと度々聞かされるのは心地がいいものではない。そう考えればオカルト本や妖怪についての本を読むサークルはむしろ奴にとって居心地がいいのかもしれない。
年3回の会報誌は「夏号」「冬号」と「学祭特別号」に分けられている。僕は自分で執筆をすることにあまり乗り気ではなく、初参加となった去年の夏号から毎度編集を担当している。編集と言っても大掛かりなことはしていない。レイアウトや内容に関しては毎度先輩たちが決めるので、僕の仕事は誤字脱字を発見するとか、その程度だ。
しかし幸か不幸か、そのためには僕は全員の文章に何度も目を通さなくては行けない。そこまで人数の多くないこのサークルでは、僕のミスは会報誌のミスに直結してしまう。だからダブルチェックはもちろん、繰り返し入念に読み込むことになる。
本を読むことは好きではないが、不思議とこの作業は僕に合っていた。致命的な誤字を発見した時は謎の達成感があったし、「なぜこんな変換ミスが起きてしまったのか」を考えるのは面白かった。それは、良くも悪くも文章全体の内容を把握する必要がなかったからかもしれない。普段、本を読むときには内容を理解しなくてはという心持ちで挑むが、この作業は純粋に間違いを発見するだけでよかった。本嫌いの僕でも、活字と睨めっこするくらいのことならできるらしい。それにありがたいことに論文でもなんでもないただの散文たちには、事実確認なども必要なくただ面白ければいいだろうといったくらいの内容しかなかったのだ。
もちろん内容を気にしていないとは言うものの、何度も読むのだから何が書いてあるのかくらいは僕も把握していた。何度かその作業を繰り返していくうちに、名前を見ずとも誰がその文章を書いたのかくらいは分かるようになっていた。
その中でも夕張先輩が書く文章は美しかった。素人の僕でも分かるほど整っていて、何より読みやすく、それでいて上手くまとまっていた。初めて編集作業に携わった時から先輩の文は一際目立っており、それを読むためだけにサークル外の人が会報誌をもらいにきたことがあるほどだった。
見事だったのは僕の本来の作業である誤字脱字などはほとんどなく、また唯一参考文献が示されているのも先輩の文だけだった。だから僕の仕事はほぼなかったのだが、それでもなぜか何度も読み返してしまった。本が好きではない僕が珍しく気に入った文章だった。
そして先輩には及ばないものの、御影の文もまた僕のお気に入りではあった。流石に先輩が書く文のように話題になるようなことはなかったが、毎度会報誌の中では前の方を任されておりその実力は認められていた。彼女の知識に裏付けされた考察が理路整然とした文章でまとめられつつ、所々で垣間見える彼女の感情を表すような言葉が魅力的だった。
ちなみに、黒滝の文は散々なものだった。毎度とんでもない数の誤字脱字を量産してくるし、「どうやったらこんな誤字がうまれるのだろう」と思えるほど、ある意味で見事な原稿を提出してくるのだった。
***
強い風が吹いて、僕は思わず「うわっ」と声を出してしまった。雨粒が顔にあたり、うまく前が見えなくなって焦った。しかし、帰るわけにはいかない。何のためにここに来たんだ、と自分に言い聞かせる。梅雨真っ盛りの中僕は一人、とある場所にいた。
「レディバグス」が来日することを知ったのは、半年前のことだった。数年ぶりとなるツアーの中に日本での公演も含まれていたのだ。僕は全力を使ってチケットを手に入れようと恥を忍んで声をかけられる限りの友人に協力を仰いだのだが、運悪く見事に全員ハズレてしまった。
それでも諦めきれなかった僕は他の方法でチケットを手に入れようとしたのだがあっという間に僕の手の届くような価格ではなくなってしまい、悔しくも涙を飲んだ。そして僕は決意した。中に入ることができなくてもいい、少しでも漏れ聞こえる音を聞くことができればと思って当日会場に赴くことにしたのだ。
そんなわけで僕は今、普段野球の試合が開催されているドーム球場の前に佇んでいる。周りには僕と同じようにチケットを手に入れることのできなかったであろう人が大勢いて、不思議な親近感を覚えた。
しかし天気は生憎の雨で、その上風も強く控えめに言っても大荒れだった。辛うじて屋根はあるが、先ほどからさらに強まった風のせいで大粒の雨が容赦無く吹き込んでくる。僕はびしょ濡れになりながらなんとか漏れてくる音を聞き逃すまいと耳を澄ましていた。ライブが始まってからすでに一時間近くが経過していたが、この嵐のせいで満足に聞くことはできなかった。
また強い風が吹いて、なんとか聞こえていたメンバーのMCがかき消された。僕はまた集中を削がれ、今日ばかりは考えないようにしようとしていた夕張先輩のことが頭に浮かんできてしまった。
御影は自信たっぷりといった顔でこう言い放った。
「頭文字、だよ」
「頭文字?」僕は聞き返すことしかできなかった。
「そう、頭文字。傍線が引かれてるところの頭文字をとって読むだけ。暗号でもなんでもない。頭を使う必要もない」
御影は僕の返事を待たずに続ける。
「いい?まず最初の線。『鴨川〜』のところ。ここは「か」をとるの。次が『欄干にもたれかかって〜』、つまり「ら」になるでしょ?」
「うん、まあ確かにそうだけど。それでいくと次は…」
「『水面に浮かぶ』だから「す」。そうやってただ読んでけばいいんだよ」
「『遠方に見える』、「え」。『暗い道を』、「く」。あれ、これは?線が途中から引かれてる」
御影は「なんで分からないの」といかにもじれったいという風な口調になりながら「これは、「ん」を作りたいんでしょ、だから単語の途中からになってるの」と言った。
「ああ、なるほど」と僕は誤魔化すように笑いながら言って、続けた。
「これを繋げるってことか」
「ああ、もう。まだ気づかないの?」と御影は不機嫌を隠さなくなった。
「か、ら、す、え、く、ん。『烏江くん』って書いてあるの」
僕は息を呑んだ。
御影は、「ようやく分かったか」と言う顔をしてから、「そう。そして、後に続くのがこれ」とそれから続く文をわざわざ書き下してくれたらしく、メモ用紙を取り出した。
僕は「なんだよ、最初からそれを見せてくれればいいのに」と思ったが口に出すことはせずに大人しく紙を受け取った。そんなことを言ったら確実に御影を怒らせてしまう。
『烏江くん』から始まる文は、こう続いていた。
『烏江くん。元気にしているだろうか。何も言わず出ていってしまったことを許して欲しい。しかし、君ならこの手紙に気づくことができるだろうと私は思った。私は今、京都にいる。もし、これを読んでいるのなら会いにくるといい。積もる話もあるだろう。夕張』
それからもうすぐ一月半が経つというのに、僕はまだ踏ん切りがつかないでいた。
夕張先輩からの「手紙」を読み終えてから僕は「え、終わり?」と呟いて御影を見た。御影は「うん。終わり」と肩をすくめながら言った。確かに間違いなく「手紙」ではあったが、それにしてはあまりにも端的すぎた。
さすがに御影もそれは思っているようで、「でも、これだけだったの。全部チェックしたんだけど」と言い訳のように言った。
「とにかく、感謝してよね。確かに短いけど、でも…」
「うん、ありがとう」と僕は礼を言ったが、その先の言葉は出てこなかった。結局、その後はサークルを欠席して一人で帰った。家に着いてもなんだか釈然とせず、ただぼーっと何を考えるわけでもなくその日は終わってしまった。
また強く風が吹いて我に帰った。僕はせっかくライブを聴きに来たのにまた余計な事を考えてしまったなと思いながら「京都か…」と呟いた。
そもそも、僕が京都に訪れたのは小学生の頃の家族旅行の一度きりで、それも今となってはあまり記憶にない。だからきっと言われた通りに京都に出向いたところでどこに行けばいいかも分からず、先輩にも会えず、ただ時間を浪費するだけになるだろうと思っていたし、おそらくそれは事実だった。
しかし先輩がいなくなってから二ヶ月が経ち、あの「手紙」以外の便りがないのもまた事実なのである。
ドームの中から歓声が聞こえた。僕ははっとして、どこかに行ってしまっていた心が戻ってきたような気になった。いつの間にか風は止んでいて、雨もいくらか弱くなっていた。
改めて聴覚を会場内へと向けると、聴き慣れた曲のイントロが鳴っていた。先ほどの歓声はこの曲が始まったからか。
「レディバグス」はアメリカのバンドだ。友達に連れて行かれたCD屋でなんとなく手に取って試聴した瞬間から僕は彼らにのめり込んでしまった。元々そこまで音楽に興味のなかった僕が、唯一全てのCDを持っているアーティストだ。
僕は彼らの曲を歌いたくて英語だけは頑張って勉強したし、真似をしてタバコを買ってみたりもした。しかし、周りの友達にそれを共有できるような人はおらず、僕はカラオケに行っても泣く泣く流行りの曲を歌うのであった。
彼らの曲はとにかく歌詞がいい。黒滝に言わせれば「ありがちな洋楽」らしいが、あいつにはそんな事を言う資格もないと分かっているので全く参考にしてない。とにかく、ボーカルが書く歌詞はとことん前向きで、基本的にネガティブな思考を持つ僕には強く響くのだ。いつも馬鹿みたいにポジティブな黒滝には分かるまい。
そんな「レディバグス」の代表曲である「レディバグス」が今、壁一枚を隔てて始まったのだ。
僕は改めてその一音一音を聞き逃すまいと目を瞑って意識を耳に集中させた。歌が、はじまる。
『僕は小さなてんとう虫 強くはないけれど どこへだって飛んで行ける 背中の模様は勇気の証さ』
4
「なあ、このウインナーコーヒーってどういうことなんだ?ソーセージとコーヒーって合うのか?俺は絶対ダメだと思うけど、おい烏江。お前これ頼んでみろよ、気になるからさ」
まったく、なんでこの男を連れてきてしまったのだろう。僕は早くも後悔していた。
「…それはソーセージが入ってる訳じゃなくて、ホイップクリームがかかってるやつだ。ウィーン風のコーヒーだからウインナー」僕は半分呆れながら雑に言葉を返した。
「なんだよ、知ってるなら先に言えよ」
「お前が何を知ってるかなんて僕が知る訳がないだろ」
「それもそうか、でも気になるからこれにしよう。すいませーん、注文お願いします!」
本当にこの男はすごい。調子がいいというかなんというか、これだけ何も考えずに生きていけたらどれだけ楽な事だろうか。僕は目の前で改めてメニューを眺めている黒滝を見てそう思った。
「ん、なんだよ。そんな見るな、気色悪い」
「別に…。楽しそうでいいなと思って」
「なんだよ、お前は楽しくないのかよ。せっかくの旅行だぜ?俺夢だったんだ、こういう「貧乏旅行」みたいなやつ。で、どこから回る?俺あれ見たいな、金閣寺。金ピカなんだろ?」
僕はつきかけたため息をなんとか飲み込んだ。そう、僕らは今京都にいるのだ。
ライブ会場からの帰り道、僕の頭の中では同じ歌詞が何度も何度も繰り返されていた。電車はガラガラだったが、雨に降られてびしょびしょになった服のまま座るのは憚られる気がして、ドアの横に立って車窓からの景色をぼんやりと眺めていた。
「どこへだって飛んでいける、か」と僕は周りには聞こえないくらいの音量で呟いた。頭の中に張り付いたその言葉はまるで今の僕の背中を押そうとしてくれているかのように感じた。家に帰ってからもそれはずっと頭から離れることはなく、僕は翌朝になるといつの間にか頭の中で京都行きの予定を立てていた。
我ながらなんと単純なのだろうと面白くなってしまったが、それでもいいと思った。どんなものであろうと、きっかけはきっかけだ。それに、正直なところ僕の心は最初から決まっていたのだと思う。だからあと一押し、僕の重い腰をあげるような何かが、必要だっただけなのだ。
普段はどんなこともギリギリにやるくせに、一度やると決まったら僕の行動は早かった。二週間後に迫る夏休みの初めの数日に狙いを定め、一気に予定を組んだ。その早さのおかげで、一緒に行ってくれるような人は結局黒滝一人になってしまったのだけれど。
別に、一人で行くのも悪くはないと思ったし、先輩に会うならむしろその方がいいのではないかという気もした。しかし、ほとんど初めてと言っていい京都に、初めての一人旅で行くのいうのはなんだか僕にはハードルが高い気がして、一番手頃な友人に声をかけたまでだ。いや、本当はただ怖気付いていただけなのだろう。一人で行って、何も手に入れることが出来ずに帰ってくることが怖かったのだ。
かといって、大人数で行動することは避けたかった。京都の中のどこにいるかも分からない先輩を探すのには身軽な方が良かったし、僕のわがままに付き合う人は少ない方がいい。無論、観光が目的ではないこの旅に来るような人などほとんどいないに等しかったのだが。
結局半ば無理矢理ついてこさせた黒滝を除いて、僕が声をかけたのはサークルの友人数名と御影だけだった。しかし、普段から真面目に活動しているわけではない僕の私利私欲に付き合ってくれるような友人はおらず、「まあ、考えとくよ…」と事実上の辞退を宣言されてしまった。
残された希望であった御影もその時期はマネージャーやらなんやらで忙しいらしく無惨にも断られた。「ごめんね!私も先輩に会いたかったんだけど…」と申し訳なさそうに言う御影は嘘をついているようには見えなかったが、だからと言ってどうしても行きたいという訳でもなさそうだった。僕も「まあ、そりゃそうか、見つかるかも分からない先輩を探しに一緒に旅に来てくれなんて、都合が良すぎるな」と思って、それ以上食いさがることはしなかった。
だから、やはりというかなんというか結局は黒滝との二人きりの旅行になってしまった。ちなみに黒滝は相変わらず二つ返事で僕の計画を了承した。こういう時は変に頼りになる男だ。いや、ただ単に暇だっただけなのかもしれないが。
7月中旬の関東は梅雨が明けるかどうかといった天気が続いていて、ジメジメとした陽気に包まれていた。肌にまとわりつくような湿気が、上がり始めた気温とともに不快感を煽っている。午前中に降った雨のせいで街は息苦しく、バックパックを背負った背中には汗が滲んでいた。
僕は歩いて最寄り駅に向かっていた。僕の下宿は大学からはそこまで離れていなかったが、駅からの距離で考えると決して近いとは言えなかった。普段は自転車で向かう道も、今日はそういうわけにはいかないと仕方なく徒歩だ。
黒滝との待ち合わせも同じ駅だった。幸いにも奴の下宿と最寄り駅が一緒なのだ。これから、電車に乗って旅に出る。その始まりの場所へと向かうのだった。
僕が立てた旅程はこうだった。今日の夜、夜間高速バスで京都へと向かう。朝一番で着いて、とにかく先輩を見つける。明日の夜は安宿に一泊して、明後日の夜にはまたバスに揺られて東京へと戻ってくる。全行程48時間ほどの弾丸旅行だ。
自分で計画を立てて友人と旅行に行くこと自体、初めてと言っていい僕の旅程が果たして良いものなのかどうかはこの時は分かっていなかった。「理論上は」簡単な旅になるはずだった。
朝7時すぎに京都の高速バスターミナルに降り立った僕らは、すでに疲れ果てていた。首、肩、腰の痛み、寝不足。コンディションは最悪だった。僕らは明らかに夜行バスを舐めきっていたのだ。
旅の計画を立てながら僕はとにかく安上がりな方法を探していた。新幹線、飛行機、鈍行列車…。結果、一番安く京都へと辿り着けるのが夜行バスだったのだ。僕は嬉々として予約をしたが、なぜそんなに安く行くことができるのかなど全く眼中になかった。そもそも、黒滝も僕も今までバスで旅行などしたことがなかったのに、安さに惹かれて「じゃあバスでいいか」ということになってしまったのだ。
出発の日の夜、東京で一番大きなバスターミナルに着いた僕ら二人は明らかに異彩を放っていた。いわば「初心者」であったのである。周りにいる他の乗客は自前の枕やアイマスク、耳栓など万全の準備を整えていたのに対し、僕らはそういったものを全く持ち合わせないばかりか、いつも通りの格好で7時間のバスへ臨もうとしていた。
23時丁度に出発した京都行きの車内は異様な雰囲気が漂っていて、僕も黒滝も困惑した。何か言おうとしたが、口を開く人などおらず、ただタイヤがアスファルトを噛む振動だけが音となって車内を包んでいた。完全に出鼻を挫かれて気圧されきった僕らは、やけに大きい車内アナウンスが鳴り響く中、ほとんど言葉を交わすことはなかった。
「では、消灯いたします」と運転手が言うとほぼ間を置かずに車内は暗闇に包まれてしまった。眠くないわけではなかったが、四列シートの硬い椅子は簡単には寝かせてくれなかった。
目を瞑ってからどれくらいが経っただろうか。一時間。いや、もう少しか。何度かうとうととして夢のような現のような、睡眠と覚醒の間を行ったり来たりしていたが、完全に入眠することは叶わないでいた。隣の黒滝はどうしているのだろう、と薄目を開けて見てみると呑気に寝息を立てていた。この男には神経というものがないのだろうか、とこの時ばかりは羨ましく感じた。
それから何度かまた寝ているのか起きているのかよく分からない時間を繰り返して、車内のアナウンスと同時に点灯された蛍光灯のあかりで完全に目が覚めてしまった。
「まもなく京都駅前バスターミナルに到着します。ご利用ありがとうございました。お降りの際はお忘れ物をなさいませんようお気をつけください」
周りの席からは声にならない呻きのようなものが聞こえ、あちこちで伸びをしている人が見えた。僕は寝不足の目を擦ってから、周りに倣うように咳払いをしてから体を伸ばした。黒滝はというと、他の乗客が全員目を覚ましているというのになんとも幸せそうな寝顔で鼾をかいており、僕はため息をついた。
降り立った朝の京都は、まるで僕の機嫌とは真逆なようにとても爽やかだった。まだ顔を出したばかりの太陽は眩しく道を照らし、心地の良い風が吹いていた。僕は一度荷物を下ろして大きく伸びをした。全部の関節が凝り固まっていて不快だった。隣で黒滝も同じように伸びを始めた。
「ん…。おはようさん。ひどい顔だぜ」
「…おはよう」僕はなんとか挨拶を返すだけの気力はあったが、その後に続く言葉を思い浮かぶほどではなかった。そんな僕を尻目に、黒滝は早速饒舌に語り出した。
「いやあ、来てしまいましたなあ。京都。京の都ですよ。舞妓さんはどこにいるんだ?」
果たしてこの男には疲れというものがないのか、それとも喋っていないと死んでしまうのか、言葉を選ばずに言えば朝っぱらからうるさかった。
「それにしてもバスってのはすげぇな。俺、首やっちゃったよ。寝違えた。いや、座ってたんだから座り違えか?わかんねぇけど、もう俺右向けないよ。てか後ろのおっさんの鼾めちゃくちゃうるさかったな。全然、一睡もできなかったぜ」
僕は咄嗟に「嘘つけ」と言いそうになった。夜中にみた時には爆睡していた癖によくもそんなことを言えたものだなと呆れながら、それでまた大声で弁明されても適わないので黙っておいた。それでも、首を痛めるとは黒滝も黒滝でバスと戦っていたんだなとよく分からない納得の仕方をした。
「とにかく、どこかに入ろう。こんな朝だから空いてるところがあるか分からないけど」僕はなるべく冷静に、建設的な提案をした。
「ええ!?早速休憩か?早く観光しようぜ」どうやら奴にとっては僕の提案は全く建設的ではなかったらしい。僕はバスだけでなく黒滝のことも甘く見ていた。そうだ、こいつは効率なんて考える気がない。とにかくやりたいことをやりたいようにやるだけなのだ。しかしここで僕がそれを咎めたところでどうしようもない。最悪な旅の始まりになるのだけは避けたかった。いくら黒滝と言えど、一人で行動するよりはマシだ。
「いや、あのさ」僕はそんな思いをなるべく表に出さないようにしながら口を開いた。
「どこかに行くにしてもさ、一旦計画を立てようよ。それに観光する場所だってこの時間じゃ空いていないかもしれない」僕は小さい子供を諭すようになるべく分かりやすく説明した。
黒滝はしばらく考えたが、「それもそうか」と一言言って「そんじゃ、探そうぜ」とさっさと歩き始めてしまった。この男の体力はどこから出てくるのだろう、と僕は心底不思議に思いながら後を着いていった。
そうして少し歩いて見つけたのがこの喫茶店である。平日の朝の早い時間から開いていて助かったな、と思った。
黒滝は目の前で届いたばかりのウインナーコーヒーを啜っている。
「おっ、これ美味いな!」と満面の笑みでコーヒーを楽しんでいる。なんとも呑気なものだ。
「お前も飲んでみろよ」と黒滝が言ってきた。
「いいよ。前に飲んだことあるし。どこも変わらないだろ、見た目でわかる」
「なんだよ、連れねえなあ」
僕は返事を返さずに自分のブレンドコーヒーを一口飲んでから改めて考えた。
京都には来た。確かに京都だ。先ほど前を通った立派な駅舎には間違いなく「京都駅」と書かれていたし、目の前には京都タワーが立っていた。
「でもお前、東と西じゃコーヒーの味は違うかもしれねぇぞ。ほら、出汁の味も変わるって言うし。そうだ、こっちだと同じカップ麺でも味が違うんだってな。あとで買いに行くか」黒滝はまだ目の前のコーヒーについて話している。
僕は少しイラついていた。さっさと今日の計画を立てて行動を起こさなくてはならないのに、集中することができない。その理由がバスの寝不足によるものであるのは明白だったが、先ほどから黙ることを知らない目の前の黒滝のせいでもある気がしてきていたのだ。実際のところ黒滝は何も悪くない、むしろ積極的にコミュニケーションをとってくれようとしていたのだが、身体の不調はいつしか精神的な不安定を生み出していた。
「いやー、すごかったな金閣寺、あんなかっこいいとは思わなかっすよ。絶対また来ますわ」
黒滝はいつの間にか隣席の常連と仲良くなって話し込んでいる。夕食でも、と思って目についた居酒屋に入ってしまったのが運の尽きだった。普段酒に強い黒滝でも流石に疲れが出ているのか早々にできあがってしまい、気づけば僕を無視して手当たり次第に話しかけている。時計の針は午後9時を指していた。
結局、今日一日を費やしても何も収穫がなかった。朝の喫茶店で僕はうまく動かない頭で計画を立てた。先輩の本に出てくる場所を手当たり次第に回ろうと思ったのだ。しかし結果的にその方法は賢いとは言えなかった。話に登場してくる場所は観光名所と呼ばれるものが多く、どこに行っても人混みで、先輩はおろか同行者の黒滝すら見失いそうになった。それに、登場する順番通りに回ってしまったばかりに全く効率的な移動はできず、京都市内を右往左往するばかりで最終的には全ての場所を回り切ることはできなかった。
僕は早くも自分の計画性のなさに絶望し、また後悔し始めていた。勢いで旅に出たはいいものの、右も左も分からない土地ではどうすることもできない。「先輩を見つけてやる」という強い気持ちもいつしか薄まってきているような気すらしてきて、僕は今日何度目かの睡魔を押しのけながら意味もなく居酒屋の壁にかかっているメニューを眺めていた。
このままではいけない。何か、何かこの状況を打破するような、画期的なアイディアはないものか、と僕は考えていたが一日中歩き回って疲れ果てた心身ではそんなものはどうしたって出てきそうになかった。
「僕は先に宿に戻るぞ」と、黒滝に一言声をかけてから店を出た。奴は随分と楽しそうで、「あーあー、わかったわかった」とめんどくさそうに言い、すぐにまた別の会話へと戻っていった。つくづく呑気な奴だな、と思いながら一日中連れ回したのにも関わらず文句ひとつ言わないその性格には尊敬の念を抱いていた。
飛び込みで入った安宿は、店から数分のところにあった。運よく個室が取れたおかげで、ありがたいことにこの疲れた体をゆっくりと休ませることができそうだった。部屋に入ってすぐに風呂に入った。朝とは打って変わって昼間には灼熱に包まれたこの街でかいた汗を流すのは心地よかった。
床を打つ湯の音を聞きながら、僕は明日のことを漠然と考え始めていた。タイムリミットは明日の夜、バスが出発する23時。それまでに何かを手にして帰らなくては全てが無駄足になってしまう。今日のようにがむしゃらに回り続けるのでは埒があかない。何か、確固たる根拠を持って決められた場所に行かなくてはならないのではないか。
僕は、焦りと不安に苛まれたまま頭と体を洗った。昨日の夜から溜まった汚れを落とすと、不思議と頭の中もすっきりとするような気がした。
風呂を出て、寝巻きに着替えてから布団を敷いて中に入った。ついでに、わざわざついてきてくれた事への感謝の意味も込めて黒滝の分の布団も用意してやった。空調の行き届いた部屋は適温に保たれており、僕は強烈な睡魔に襲われた。僕は、いくら疲れているとはいえ、このまま眠ってしまってはいけないと思い、起き上がって窓辺の椅子に座ることにした。今一度この旅の発端となった本を開き、ページをめくり始めた。
***
先輩は、何度も僕の下宿に来ては酒を飲んだ。一人で来ることもあったし、僕の知らない先輩の知り合いを連れてくることもあった。元々人見知り気質の僕でも、不思議と初対面で仲良くなることができるような人ばかりだった。
先輩は大体酒を持参してきた。ウイスキーの日もあれば、日本酒の日もあった。まだ酒を飲み慣れていない僕に、色々な種類の酒を教えてくれていたのかもしれない。暑い日にはキンキンに冷えたビールを、寒い日には梅酒のお湯割りを。その日その日の気候や気分に合う酒を選んできた。
つまみを用意するのは僕の役目だった。最初の頃はその時に家にあるものを適当に出すようにしていたのだが、会を重ねるうちに日頃からスーパーに行っては買い出しをするようになった。そうやって、その日出てきた酒に合わせたつまみを出すと先輩は褒めてくれた。それが嬉しかった。
飲み会は大体夜の8時くらいから始まって、夜中まで続いた。僕は先輩に「帰ってください」と言ったことはなく、いつもちょうどいいところで先輩が「そろそろ帰るとするか」とつぶやいて出ていく。そのタイミングは見事だった。僕がとことん飲みたい気分の時はずっと付き合ってくれていたし、軽く一杯くらいの気持ちの時は日を跨ぐ前に帰っていった。
話した内容は他愛のないことだった。いつも同じギャグで笑い、いつも同じ思い出話をしていた。それでも、その時間はとてつもなく楽しかった。
一度、朝まで二人で飲み明かした日があった。夏の真ん中くらいだった。東向きの窓から眩しすぎるくらいの朝日が僕ら二人を照らし、お互いに泥酔しながらそれを眺めていた。
「歩こうか」
「はい」
僕らは朝の空気に包まれた家の周りを、ただあてもなく歩いた。鳥が鳴く声をそれよりも大きい蝉の声がかき消すように煩く、酒で鋭敏になった聴覚に気持ち悪く響いた。しばらく来たところで先輩は足を止めて煙草に火をつけた。最初の煙を勢いよく吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。煙草を吸わない僕にも、美味そうに見えた。
「烏江くんは。吸わないのかい?煙は」
「はい。吸ったことはあるんですけど。どうにも合わなくて」
「そうか。それならその方がいい」と言ってまた煙を吐いた。
僕は何も言わず、先輩の口から放たれた煙が少しずつ薄くなって空気に溶けていくのを見つめていた。先輩が好んで吸っている銘柄独特の甘い匂いが鼻をついた。僕は先輩以外にその煙草を吸っている人を見たことがなかった。そもそも知り合いに愛煙家がそんなにいないから、そこまで珍しいものではないのかもしれないが。
「煙草はいい。でも吸わない方がもっといい。どうやら体に良くないらしいからな」先輩はまるで他人事のように言った。
「じゃあ、なんで」と僕が言いかけると、まだ言い終わらないうちにすぐに先輩は答えた。
「美味いからさ。とても。最初の一口がね。まるで小説の書き出しのように、一番最初が一番いい。次にいいのは最後の一吸いだな。小説で言えば終わりの部分だ。真ん中なんてない様なものさ」
「そんなもんなんですね」煙草も吸わず、本も読まない僕にはあまりピンと来なかったせいもあって曖昧な返事を返した。
「そうなんだよ。さ、行こうか」
最初の一吸いと同じくらい深く最後の煙を吸い込んでから、先輩はまた歩き出した。
「川はいいね。人類には川が必要だよ」欄干にもたれながら先輩が言った。
僕の家から歩いて5分もしないくらいの場所に流れている小さな川は西から東へと流れており、下流へ向くと丁度朝日が見えた。僕らは夏の強い日差しを全身に受けながら、川面に反射して揺れる太陽を眺めていた。水の流れる音は意外に大きく、あんなに煩かった蝉の声が気にならないくらいだった。
「川が、好きなんですか」僕は聞いた。
「そうだなあ。好きと言うよりは、あって当たり前の様なものである気がするな」
「当たり前、ですか」
「そうさ。当たり前のもの。普段は意識しないかもしれないが、ふとした時に思い出しては戻ってきたくなる。川がない街に住むことは考えられないな」
「そうですか?僕は別に川なんてなくてもいい気がしますけどね」
「それは君がいつでもここにくることができるからさ。今はそう思うかもしれないが、もしも突然なくなってしまったら?変わらないと思っていることの方が簡単に変わってしまったりするものさ」
「そんなもんですかね」
「人は変わることには努力が必要だと言うが、変わらないことにも努力が必要だということにはあまり気づかないものだ。そうやっているうちに、いつの間にか変わってしまったものや事を嘆く」
先輩はいつになく遠い目をしていた。僕が先輩の方を向いても、先輩はずっと川の流れを見続けていた。
不思議なことに、それから先輩と川に行くことはなくなった。散歩の途中に「川、行きますか?」と僕が提案しても「いや、いいんだ」と言うばかりで、僕としてはなんとも釈然としなかった。
そのうちに僕もなんだかムキになって、「じゃあ一人で行ってやる」と訳のわからない意地の張り方をして、先輩と会わない日でも一人で川辺に来るようになった。海から遠く離れたこの街に流れている川はかなり上流の方で、水は澄んでいた。しばらくするともっと大きな川と合流して、いつかは東京湾に流れ着くのだそうだ。
夕暮れ時に一人、川辺に佇む若者は周りから見たら不審者に近かったかもしれないが、僕はその時間が嫌いではなかった。水が流れる音、子供たちの声、風に揺れる草のざわめき。日々忙しく様々なことに追われている僕らが無心になれる時間は実はそんなに多くはない。
もしかしたら、先輩は僕にそれを教えようとしてくれていたのかもしれない。だから、頑なに二人で来ることを嫌がったのではないか。確かに、この時間は一人でなくては味わえない。
***
本を閉じて横になると、一気に疲れが襲ってきた。脳が体を早く休ませろと言っている。黒滝のことを考えて電気はつけたままにしておいたが、目をつぶるとすぐに眠気が襲ってきて、考える間もなく僕は眠りに落ちた。
夢を見た。やけにはっきりとした夢で、現実感がありすぎるせいかむしろ心地悪かった。夜行バスのせいだろうか。全身の痛みがより鮮明になっていて、僕は熱に浮かされたように夢か現かわからないまま、先輩と二人で川を見ていた。
それは夢というよりは、ただの記憶の整理であるかのようにその時のことを鮮明に脳裏に蘇らせた。匂うはずのない水草の匂い、聞こえるはずのない水の音が、どこからか漂って僕を包んでいた。
体は眠っているはずなのに脳だけがやけにはっきりと動いて、思い出さなくてはいけない何かを記憶の引き出しから無理矢理引っ張り出そうとしているかの様だった。次から次へと、長らく閉ざされたまま奥底に眠っていた記憶の断片を一つ一つ取り出しては確認していく。どんなに些細なことであっても、なんとしても思い出したいという意地のようなものが、眠っているはずの僕の意識の中に朧げだが、しかし、確かにあるような気がした。
「川は朝がいい。朝日を眺めながら視線を水面に落とすんだ。澄んだ空気の中で爽やかな光に包まれながら水の音に耳を傾ける。こんな贅沢は他にはない」
今までよりも鮮明に–––まるで隣に先輩本人がいるかのように、声が聞こえた。僕ははっとして一気に目を覚ました。そうだ。あの日、先輩は僕と二人で橋の欄干に凭れながら確かにそう言ったのだった。
まだ疲れが残っている体を強制的に布団から起こす。開ききっていない瞼の隙間から、薄暗い部屋の中を見渡した。隣には黒滝がひどい格好で横たわっている。寝ているというよりは、倒れているといった表現の方が合っているだろう。どうやら酔い潰れて宿まで帰ってきたはいいものの、電気だけを消して布団に倒れ込んだのだろう、服を着替えるどころか貴重品がそこここにばら撒かれたままだった。奴も疲れていたのだろう、無理もない。
そんなことよりも僕は、奇跡的に思い出した先輩の言葉をもう一度反芻して、改めてしっかりと起き上がった。朝だ。朝の川なのだ。
本当のことを言えば、なんとなくそんな気はしていた。目星もついていた。京都の川といえば、鴨川だ。昨日バスから降りて喫茶店に入ったあと、真っ先に向かったのは鴨川だった。しかし僕らは先輩を見つけることができなかった。その時点でとっくに太陽は顔を出していて、街はすでに明るくなっていたのだから。
先輩の言葉を、そのまま信じるとすれば。もっと、もっと早く。日が昇る前に行かなくてはいけなかったのだ。なぜそんな簡単なことを思い出すことができなかったのだろうか。僕は自分で自分の不甲斐なさに呆れ、ため息をついた。
しかし、今は落ち込んでいる場合ではない。すでに窓の外はほんのりと明るくなり始めている。反省など、後からいくらでもできる。とにかく、今すぐに鴨川に向かわなければ。
そう考えるや否や、僕は宿を飛び出していた。寝巻きから着替えることもせず、ポケットに財布と携帯電話だけを入れて、走り出していた。黒滝には後で連絡すればいいだろう。奴の寝顔に、一応「ありがとな」とここまでついてきてくれたことへの礼は言っておいた。
とにかく早く川に辿り着かなくてはいけないと思った僕は、五条通を東へと走った。日の出まではもう30分もないだろう。僕は昇る太陽の十倍も速く走らなくてはと思った。
あけぼのの五条通は静かで、僕の足音だけがこだましていた。こんなことになるならランニングシューズを履いてくればよかったと後悔するが、時すでに遅し。履き潰したスニーカーの剥がれかけのソールで、アスファルトを不器用に蹴った。朝の靄の中で、遠くに橋の様なものが見えてきた。五条大橋だ。鴨川まではもう少し。昨日も歩き回ってすでに疲れ切った足に鞭を打って、僕は進んだ。
しかし、そこに人影はなかった。先輩はおろか、視界には人の姿が見当たらなかった。僕はほんの一瞬だけ、本当に少しの間だけ、微かな諦念を覚えたがすぐにそれを振り払った。落胆して立ち止まる暇は今の僕にはなかった。とにかくなんとしてでも先輩を見つけなければならないという強い感情が、ここまで来てしまったという意地とともに大きくなっていた。
この橋じゃない。ならば、どこなんだ。上流か、下流か。僕はあの本を持ってこなかった事を悔やんだ。『鴨川』という書き出しから始まる最初のシーンは、どこの事を言っていたのか。
5
「四条大橋!」僕は目についた橋名板の文字を、つい声に出して叫んでしまった。わかったのだ。「鴨川デルタ」だ。賀茂川と高野川が合流して「鴨川」になる地点。二つの川に挟まれた三角形。その場所こそが先輩から渡された小説の始まりの地なのだ。
つい5分前、僕は五条大橋の上に立って、肩で息をしながらやり場のない焦りに駆られていた。目を覚ましてすぐにここまで走ってきたはいいが、それからの事を考えていなかった。右に行くか左に行くか。夜の終わりに間に合うためにはどちらか一方しか選ぶことができないのは明白だった。それに、長く迷っている時間はない。一刻も早く走り出さなくてはいけなかった。
僕は必死に頭の中で地図を思い浮かべた。そこで、思い出したのだ。御影が出発前に言っていたこと。
「鴨川って面白い形してるんだね。Yの字だ。「夕張」のYだね」
その時は何も思わなかった。確かにそうかもしれないが、だからどうしたと言うのだというように笑って軽くあしらってしまった。そうだ、夕張のY。そして先輩はいつも「Yという文字はいいね。特にこの二つの線が交わるところが良い。素敵な文字だな」と言っていたのだ。
「二つが交わるなら烏江のKだってそうじゃないですか」と僕が言うと、「違うんだよ。Yは交わった後、一緒に進むんだ。夕張のY。悪くないだろ?」と返された。二つの線が交わる点。そこが先輩のいる場所だ。
だから、先輩はあの本を選んだのだ。鴨川デルタ。二つの川が一つになって名前を変え、一緒に進んでいくその起点。ようやくその書き出しが『鴨川デルタの三角形に僕は立っていた』という一文から始まる事をはっきりと思い出した。
「三条大橋!」夜から朝に変わる、丁度真ん中くらいの時間になって、辺りに人が増え始めても僕は人目も憚らず叫んだ。目指すべき目的地が明確になった今、僕にできることはひたすら走ることしかなかった。五条大橋から北へ、四条、三条と減っていく数字を見て、着実に進んでいることを確認しながら足を動かした。
早朝の時間帯に、寝巻き姿で走っている人はそんなに多くない。ランニングをしている人たちはもっとちゃんとした格好をしている。しかし、僕にはそんなことは気にならなかった。とにかく、日が昇ってしまう前になんとしてでも鴨川デルタへ辿り着かなくてはいけないという気持ちだけが背中を押した。
僕は、たとえそこに先輩がいなかったとしてもいいとすら思っていた。日の出までに全力を出し尽くして、それで会えなかったなら仕方ないかもしれないが、このまま引き下がるのは嫌だった。少なくとも、今僕ができることはやっておかないと、諦めもつかないと思った。
しかし、学校のマラソン大会でも後ろの方をのんびりと走っていた僕の体はすでに限界を迎えていた。脇腹が痛い。呼吸が整わない。足が重い。残されたほんの少しの体力を、気力で無理矢理絞り出していた。
「二条大橋…!」僕は切れ切れになんとか声を出した。間違いなく近づいている。僕は足を止めたくなる気持ちを精一杯に押し殺してまた走り出した。今この瞬間にも刻一刻と辺りは明るくなってきている。
五条大橋を出てから20分ほど経っただろうか。目的地までの最後の橋、「賀茂大橋」が見えてきた。川のすぐ横に設けられた遊歩道を走る僕の足元が、もうほとんどはっきりと見えるくらいまで空は明るい。
橋の先に、いよいよ「鴨川デルタ」が見えてきた。三角形の中にいくつか人影が揺れている気がした。僕は最後の力を振り絞って進んだ。
賀茂大橋の下をくぐり、高野川の終わり、鴨川の始まりへとたどり着いた僕は、一呼吸置いてから飛び石に足をかけた。あと20歩ほどこの石を進めばそこはもう鴨川デルタだ。急に走るのをやめたせいか、膝が笑っていた。飛び石を一つ一つ慎重に、しかし急ぎながら渡っていった。
最後の一歩を踏み出して三角形の頂点に足をついた。走っている時に出なかった汗が一気に噴き出してきた。体が火照っていて、薄い熱の膜が張られている様だった。僕は、今すぐにでも座り込んでしまいたくなる気持ちをぐっと堪え、額の汗を右腕で拭ってからゆっくりと歩き出した。
周りを見渡すと、朝の散歩と思われる人が何人か怪訝そうにこちらを一瞥してすぐに目を逸らした。変な人だと思われただろうか、無理もないかもしれない。
僕は改めてそこにいる一人一人を確認した。辺りはまだ一目で誰かわかるほどの明るさではなかったが、着物姿の人影は見当たらなかった。
一通り鴨川デルタの中を一周して、僕は最初にたどり着いた飛び石の横に腰を下ろした。落胆とともに、不思議な達成感と、またそれに伴う諦観のようなものが複雑に胸中を渦巻いていた。
「そんな上手くはいかないか…」と僕は独りごちた。確かに、この場所に先輩がいることを示唆するような出来事はたくさんあった。しかしそれらはどれも僕や御影、黒滝を含めた僕らの推測でしかなく、確固たる根拠になるようなものはなかった。本に隠された手紙からは具体的な場所は分かっていなかったのだ。それなのに何故だか京都に来さえすれば先輩に会える気がしてしまった。単純に、考えが甘かったのだ。先輩は言っていた。「変わらないことにも努力が必要だ」と。僕は、いや、僕も先輩もその努力を怠っていたのだ。何もせずともただ同じような日々がなんとなく続いていくのだろうと心のどこかで思っていた。だから、今になって振り返って、取り返しがつかない事を嘆いてしまう。
しかし、僕は自分でも驚くほど清々しい気分でもあった。今まで怠ってきたその努力を、今初めて自分の力で行うことができた気がしていたのだ。たとえ、結果が伴わなかったとしても、ここまで走ってきたその距離は揺るがない。あとは、結果が出るまでまた走り続ければいいと思った。
僕は、長くて短いような数キロのランニングで疲れ切った体を仰向けに倒し、青みがかってきた空を見上げて目を瞑った。
永遠であり、一瞬だった。先輩との一年間をそう形容してしまうのは些か短絡的かもしれない。しかし、事実僕にとっては永遠の日々だったのである。それでいて、今振り返ってみればまるで一瞬であったかのようにも感じる、そんな日々だったのである。
いや、もしかしたらそれは先輩との日々に限った話ではないのかもしれない。僕らは日々、同じような毎日が過ぎていくことに対して特別な感情を抱くことはない。それがまるでずっと、何も変わらずに続いていくかのような気すらしている。しかし、どんな日々も振り返ってみれば一瞬に感じるのだ。嬉しかったこと、悲しかったこと、感動したこと。それら全てはいつの間にか、僕らが望まなかったとしても、過去という過ぎ去った時間の中に葬られ、あるものは美化され、またあるものは都合よくねじ曲げられながら戻ることのできないものとして残っていく。
「記憶」や「思い出」という名前で呼ばれるそれらを、僕らは忘れないように強く心に刻みたいと願う。しかし、残酷に過ぎ去っていく時間が、いつしか日々の忙しさとともにその願いを飲み込んでいく。自分でも気づかないうちに、大切であったはずの記憶は日に焼けてじわりじわりと薄くなっていくインクのように見えなくなっていく。だから、もう一度、せめて一日だけでも、あの頃と同じような日々を過ごしたいと思うのは、きっと不思議なことではないはずだ。
御影は、ことあるごとに僕にこう言っていた。
「烏江くんはさ、何がしたいの?」
僕は毎度その質問にうまく答えることができないでいた。本当のことを言えば何もしたくなかった。強いて言えば、「ただこの毎日をずっと続けたい」というのがその答えだった。しかし、その願いを叶える努力をしようとは思わなかった。
黒滝は、ちゃらんぽらんなように見えて、案外しっかりした男だ。成績に関して言えばあまり良いとは言い難いかもしれないが、日々アルバイトをしながら奴なりの人間関係を広げていき、同僚の中でも特に秀でているらしい。
僕はと言えば、先輩から紹介された小さな商店の店番をたまに手伝うくらいで、積極的に自分から人脈を広げたいとは思っていなかったし、努力もしなかった。
結局、全て僕自身の責任なのだ。本当に同じような日々を続けたかったのなら、自らそうなるように行動を起こすべきだった。それをしなかったのは僕が怠慢であったからに他ならない。残念ながら、それを今更悔やんだところでどうにもならない。だから、僕は足を止めなかったのだと思う。
しかし、きっとそれも甘えなのだ。「これだけ努力したのだから」という気持ちはある種の麻薬だ。たとえどれだけ努力したところで、結果が伴わなくては意味がなく、今僕が抱いている達成感などというものは所詮自己満足に過ぎないのだ。
だが、僕はそれでも良いと思った。甘えだとしても、それでいい。これからは、ここまで来たという事実を胸に抱くことができるのだから。結果が伴うまで走り続ければいい。止まらなかった経験が、また走り出す時に背中を押してくれるはずだ。僕は自分にそう言い聞かせていた。
大学の道で先輩に出会ったあの日から、ずっと一続きで繋がっていた物語が、終わりを迎えた気がした。今までは先輩という大樹の陰に隠れて生きてきた自分が、ようやく日向に足を踏み出して新しい物語を紡ぎ始める時がきたのだと気づいた。
もう少ししたら、宿に帰ろう。黒滝も起きて心配しているかもしれない。僕はそう思ってからあと5分だけ鴨川の水音を聞くことにした。
ふと、特徴的な煙草の匂いが鼻腔をついた。僕は咄嗟に目を開けて起き上がった。先ほどよりもまた少し明るさを増した鴨川デルタの景色は開いたままの瞳孔には眩しく感じた。ようやく目が慣れると、そこには見たことのある着物姿で佇む懐かしい顔があった。
「随分と早かったね。もうすぐ日が顔を出すよ」
***
「そんなわけなくない!?」と御影が言う。その口調はどこか拗ねているようでもあり、また僕を責めているようでもあった。
「せっかく探すの手伝ってあげたのに」と御影は続ける。
「ごめんごめん。でも、実際そうなんだから仕方ないだろ」と、僕は弁明にならない弁明をした。
「黒滝くんはどう思う!?」いつになく声がでかい。
「知らね。だって俺、置いてけぼりだったし」
どうやら僕は二人の友人を怒らせてしまったらしい。発端は僕の一言だった。
先輩に出会えてどうだったか、という質問に対し僕は正直に「うーん。別に。感動もしなかったし、驚きもしなかったかな」と答えたのだった。
京都から帰ってきた翌日、いつもの居酒屋で僕は質問攻めにあっていた。黒滝は帰りのバスの中からずっと「なぜ俺を置いていったのか」と言い続けているし、御影は「なんでそんな平然としてられるのか」と僕を責める。
鴨川デルタで目を開け、そこに先輩がいた時は確かに多少驚いた。しかしその驚きは先輩に出会えたことに対するものではなく、純粋に目の前に人が現れたことへのものに過ぎなかった。
あの時、僕の心の中はなぜか非常に穏やかで、先輩が来るとも来ないとも思っていなかった。ただ、成り行きに任せるような、川の流れに身を委ねるような、そんな気分だったのだ。先輩は僕の隣に座って、まるで昨日も会っていたかのように喋りだした。僕も同じように、今までと何も変わらずに話を聞いたのだった。
先輩は珍しく自分のことをぽつぽつと話してくれた。実は実家が京都であった事、今は大学院に行く準備をしている事、将来は研究者になるつもりである事。今までひた隠しにされてきた先輩自身の事も、僕は心底穏やかな気持ちで聞いていた。僕はもう「先輩の弟子」としてではなく「烏江」という一人の人としてこれからの時を過ごすのだということを分かっていたのだ。
続けて、先輩はまた色々な事を話してくれた。あの本に込められたメッセージにはきっと御影の方が先に気づくだろうと思っていた事、しかし京都の中でこの鴨川デルタが落ち合う場所だと気づくのは僕だけだろうと思っていた事、そして何より驚いたのは、あの本の著者が先輩本人だったことだ。
「真っ先に気づかれると思っていたのだが」と先輩は笑った。
ずっと疑問ではあった。どうやってあんなに的確なメッセージを忍ばせることができたのか。いくら先輩でもそれは一筋縄ではいかないだろうと思っていたのだが、先輩自身が作者なら合点がいく。
僕を弟子にした理由も語ってくれた。僕はもう、今更そんな理由を聞きたいとすら思っていなかったのだが、先輩は静かに言葉を紡いだ。
「あのサークルは、私の祖父が立ち上げたものなんだ」僕は下手な相槌を打つよりは静かにその言葉を聞く方がいいだろうと思って黙っていた。
曰く、先輩の家は代々続く本屋なのだそうだ。そして先輩の祖父に当たる人、つまり「全国神社仏閣愛好研究会」の発起人となった人物は、他でもない「朝解さん」だった。「夕張」を捩ったペンネーム、「朝解」。だからサークルの本棚には「朝解さん」の本ばかりが連なっていたのだ。
そんな祖父の代から続く大事なサークルをなくしてはいけない。そういった思いから、先輩の父は当時の後輩を弟子にとったのだ。それから長らく続く「全国神社仏閣愛好研究会」の師弟文化が、ついに孫である夕張先輩まで辿り着きそして僕がその弟子になった。
「困ったことになったと思ったよ」と先輩は言った。話を聞くと、師匠となる人はあの日僕が通った道で出会った人を弟子にしなくてはならないという決まりがあるそうだ。そこに深い意味はない。所謂、伝統だ。声をかけるのは誰でも良いわけではないが、もともと人通りの少ないあの小道を通る人というのはほとんどいないに等しい。だから、先輩は半ば仕方なく僕に声をかけたのだと言った。
「言葉を選ばずに言えば、君は冴えない感じだったからな」と先輩は笑った。僕も「そうですね」と笑った。
「しかし、実際は君を弟子に迎え入れてよかった。皆がやりたがらない作業を進んでこなしてくれるし、縁の下の力持ちという言葉がよく似合う」
「そんなことないですよ」と謙遜しながら僕はなんだか嬉しかった。編集作業というのはなかなか日の目を浴びず、「誰にでもできる仕事」としてしか見られていなかったのだ。それに、僕自身が引け目を感じていた部分もあった。「執筆ができない」という事へ対して自分の力量不足を嘆いたりもした。
だから改めて自分のやっていた事を褒められると、まるで今までふわふわと漂っていた何か、形のなかったものが初めてしっかりとした形を手に入れたかのような、存在意義というものを得たかのような気分になった。
「君はよくやってくれた。感謝しているよ」と先輩は僕の顔を見ながら言った。そして、次に驚くべき事を僕に告げた。
「今日からは君が誰かの師匠だ。しっかりと弟子をとってくれたまえ」
「それで、どうするの?弟子は。探さなくちゃいけないんでしょ?」と御影が聞いてきた。
「いや、それは4年生までに見つければいいみたい。ただ、最低一年間は師弟関係を続けなくてはいけないみたいだけど」と僕は先輩から聞いた「掟」のようなものを伝えた。
「それなら俺がなってやろうか?」と黒滝が冗談を言う。
僕はそれを無視して続ける。
「でも、卒業しても終わりじゃないからなあ。何か自分の得意分野で弟子と再会しなくちゃいけない。それが一番難しそうだよ」
「そっか、だから先輩は本を書いたんだ。烏江くんはどうするの?」と御影は少し心配そうな顔をした。
「分からないよ、その時になってみないと」と僕は濁すが、なんとなくプランはあった。先輩が、先輩の好きなものだった本を僕に押し付けたのだから僕は僕の好きなバンドを未来の弟子に押し付けようと思う。その先は、まだ決めていない。
「とにかく、二人ともありがとう。おかげで先輩にまた会うことができたよ」と僕が言うと二人の機嫌も少しは良くなったようだった。
「次はちゃんと俺も連れて行けよな」と黒滝は愚痴っていたが、その顔は早くも次回の観光プランを考えている様に見えた。
「その時は私も行くからね。だからちゃんと前々から計画を立てて…」といつの間にか御影も乗り気になっている。
次に先輩に会う日は、案外そんなに先の話ではないのかもしれない。
エピローグ
桜の季節がやってきた。僕はやけに緊張しながら、キャンパス内の小道にあるベンチに座っていた。散々悩んだ挙句結局いつものバンドTシャツに身を包み、新入生が通るのを待っていた。
あれから一年半。ついに、僕は誰かの師匠になる。御影も黒滝もそれぞれに忙しく、一言「頑張って」とだけ残してどこかへ行ってしまった。
間違いなく不安ではあった。しかし、それと同時に当時の夕張先輩もこんな気持ちになったのだと思うと少し笑えてきた。
これから一年間、誰かの見本になれるような人間になれるかは分からない。しかし鴨川デルタで先輩と交わした言葉を思い出すと、完全無欠であると思っていた先輩もまた一人の人間だったのだと、少し気が楽になる。僕は僕のできることをしよう。そう思った。
先輩とは、あれからも何度か会って話をした。御影と黒滝と3人で京都に出向いたこともあった。その時は先輩の見事な観光プランにより全員大満足、しかし疲労困憊というストイックな旅行になった。
先輩が東京に来ることもあった。2人でよく行っていた居酒屋で久しぶりに酒を飲んだり、「先輩の師匠」なる人を紹介してもらったりもした。その人もまた先輩に似て不思議な人で、この師匠にしてこの弟子ありだな、と納得したりもした。
一番緊張したのは先輩の実家に呼ばれた時だ。サークルの創設者である先輩の祖父、師弟制度を始めた先輩の父、そして先輩の三人に囲まれた時は行きた心地がしなかった。しかし先輩はもちろん他の二人もとても気さくで、しばらく話すと僕も段々と打ち解けることができた。
サークルの活動も以前より前向きに行うようになって、去年はついに自分で記事を書いてみたりもした。
そして気づけば僕も無事4年生に進級し、いよいよ最後の学年になってしまった。先輩には「誰でもいい、という事はないが、誰でなくてはいけないという事もない」というアドバイスをいただいたが、その言葉の真意を僕は掴みきれないまま時が来てしまった。
少し遠くにこちらに歩いてくる人影が見えた。いかにも新入生といった風貌で、物珍しそうに周りを見渡している。向こうも僕に気づいたようで、気まずそうに目を逸らした。
僕はそんな新入生を目で追いながら、声をかけるべきか、それならどう声をかけようか、と考えはじめた。