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【書評】絡新婦の理(ネタバレあり)
あなたが、蜘蛛だったのですね。
今の日本文化は、我々日本人自らにより、無自覚に侮辱されている
私にとって、『絡新婦の理』は、そんな示唆を感じさせる小説である。
およそ20年前、書店で平積みにされた煉瓦のように分厚い小説が私の目に入った。
小説というには異質なその塊に、金色の帯が巻かれていた。
その帯には、この小説が「女」をテーマにしていることが示されていたように覚えている。
長年に渡って女性心理を研究してきたにもかかわらず解答の出せない問題は「女性が何を求めているか」である。
「女性が何を求めているか。」
フロイト御大が求め続けたよう、ニキビ面した当時学生の私もまた、その問題の解答を求めていた。
近年、『IT 〜それが見えたら終わり〜』でもう何度目かの脚光を浴びた”キング・オブ・モダンホラー”と呼ばれるホラーの巨匠”スティーヴン・キング”もまた、自著『ドロレス・クレイボーン』にて同じ問題について書いている。
母、ルース・ピルズベリ・キングへ
精神分析学の祖、アメリカ大衆文学の帝王、そして今回書評を書く『絡新婦の理』作者”京極夏彦”もまた、永遠の謎に魅せられた男なのだろうか。
そして私もまた、未だその永遠の謎に解答を出せないまま魅せられ、時に怯え、時に憎悪し、時に無尽蔵の憧憬を抱く男の一人である。
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犯人に恋愛感情を抱いた理由
文庫本と呼ぶには異質なまでに分厚い本である。しかも、『百鬼夜行シリーズ』といわれるシリーズものの5冊目だ。
私は、『絡新婦の理』を読むためだけに、1作目『姑獲鳥の夏』から読み出した。
それほどまでに、”女”という謎は価値のある概念だったからだ。
読了まではあっという間だったと覚えている。一気通貫。
なぜなら、絡新婦の理までの全5冊全てが非の打ちどころのない傑作ばかりだったからである。
「あなたが、蜘蛛だったのですね」
最後の一行を見た時、私の胸の中に湧き溢れる不思議な想いを、今でも思い出す。
私は、犯人である女を好きになっていたのだった。
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なぜ自分が彼女を好きになったのか
それは、彼女もまた「個」を追求し、襤褸襤褸になった人だったからだ。
当時、そう考えたことを覚えている。
同じような悩みを抱き、過ちを犯した女。
そのように見えたのだ。
ただ、今思い返すとどうだろう。
おそらく、違う。
彼女は、どうしてこんな事件が続くのか、全く理解していなかったのだ。
真犯人でありながら、である。
ただ、それが今の私にとっては彼女の魅力なのだろう。
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女は時折、「自分ですら自分のことがわからない」という
男もそう思う時はあるだろうか…そうかもしれない。
ただ、女のそれは、ずっと複雑で蠱惑的だ。
それは時に陰湿で、屡々他人を振り回す。
だが、それがいい。
時に本人さえ予測がつかない、不可思議な言動。その言動に振り回される怒りに比例して、その魅力を増す。
それが私の本音である。
『絡新婦の理』における真犯人は、まさしく、そんな”悪女”なのだ。
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家父長制の視点で家母長制を見ることは、日本文化への冒涜かもしれない
小説の舞台となる名家”織作家”は、女系家族である。
それはすなわち、家母長制のイエ制度で成り立つことを意味している。
あえてわかりやすく、しかしながら雑な説明をすると、家母長制とは家父長制の逆と言える。
家父長制とは、いわゆる『父親が一番偉く、男が家長の地位を継ぐ』という、相続のシステムでもある。
家母長制とは、表面的にはその逆のシステム、すなわち『母親が一番偉く、女が家長の地位を継ぐ』という、相続のシステムと言える。
(注:強調するが、非常に雑な説明であり、不勉強で言葉足らずな解釈であることを前提としていただきたい)
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父が長であることと、母が長であることの違い。
それは、子供が自分と血が繋がっていることが明確であるか否かである。
家族システムにおいて、これは”血筋を絶やさない”という機能において、家母長制のほうがより柔軟であることを示唆する。
なぜなら、家母長制において、父親は誰でも良いからなのだ。
生まれた娘は、必ず自分と血が繋がっている。
その中で、最も優秀な女を次の長とする。
それは、家父長制の価値観からは”男を取っ替え引っ替えするふしだらな一族”という意味に解釈されることは想像に難くない。
また、それは現代社会に生きる我々日本人におけるマジョリティーの意見なのだろう。
実に偏狭な視点ではないか。
男は強く、女は3歩下がって支えて生きる。
それが、
キリスト教的西洋文明に根付く、男尊女卑文化に侵食された、我々日本人みずからによって、みずから日本文化を卑下する行為である。
というのが、私の解釈なのだ。
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宣教師が日本に来た時、「なんて乱れた国だ」と感じたとのことだった
混浴、夜這い、衆道の契り。
キリスト教における”罪”が、日常に溶け込むこの日本という島国の文化は、けしからないものだったのだろうか。
だが、生まれる前から脈々と受け継がれたこの大衆文化に対し、「乱れている」というレッテルは、西洋から持ち込まれた一つの視点に過ぎない。
禁欲はキリスト教の得意分野に見受けられる
そしてそれは、人を支配するのに便利な道具だったという研究もある。
私たち日本人は、そんな宣教師をどう思ったのだろうか。
もし私がその時代を生きた町民なら、その宣教師を「つまらない人」と思ったかもしれない。
あるいは「おっしゃる意味が分かりません」と思うかもしれない。
文化の交わりにおける価値観の押し付けほど、ありふれた傲慢はない。
他者と関わる時、私は日々そのような感想を抱く。
明治維新の功罪
明治維新を経て、日本は開国をしたと記録される。
海外と関わるに於いて、私たちの伝統と文化は、そこで大きな転換点を迎えたように思う。
一説には、本来の日本文化は武士道とは真逆だと聞く。
なぜならほとんどの人間は、武士ではなかったからだ。
武士でもない人々にとって大切なこと。
日々ご機嫌に生きる
それだけでよかったのではないだろうか。
しかし、列強の帝国達と渡り合うには、”日本国”という概念のもと、”日本人”という価値観を統一し、天皇と国の指示に従う必要があったのだろうか。
そのために、新渡戸稲造の”葉隠”、”武士道”といった価値観を浸透させ、主君に従うサムライ文化を日本文化の主流に変えていったという説だ。
私は、この説を支持したい。
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日本国ではクリスマスや墓参り、初詣。バレンタインやハロウィン。宗教的側面だけを見ても、多種多様な文化となじみ楽しむ。
アニメのキャラクターが、町おこしや政府のPRの主役に任命され、二次元と三次元の境界もまた、曖昧な国に見受けられる。
そんな柔軟さと懐の深さ広さが、本来の日本の伝統文化なのではないか。
明治維新で切り捨てられたであろう”和”やかな人間関係と価値観。
そんな”和の魂”こそが真に残し、引き継ぐべき日本文化、大”和”魂だったと、私は主張したいのである
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それは、キリスト教や父系社会を主流とする男尊女卑的価値観のみに染まった、現代社会を見つめ直す一つの手段となりうるかもしれない。
どちらかが優れ、どちらかが劣る。
世界中でその視点が限界を迎えているように、私は感じている。
世界中の都市をニューヨーク化し、演繹的論理で築き上げる学問体系の構築、西洋文明。
それは豊かさをもたらしたと思う。
だが、1つの文化や視点で統一しようとするこの世界は、脆弱ではないか。
あまりにも硬く脆いのではないだろうか。
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優れている、劣っている。その物差しはそれぞれ違い、それぞれ矛盾する。
私の言いたいことは、単純明快。
それぞれ違う
それだけである。
最後に、『絡新婦の理』から”自己と他者”という、蜘蛛の絲のように絡み合う”関係”について、もう少し話にお付き合いいただきたい。
私たちヒトは、他人があってこそ初めて自己の存在を認識することができる
まるで仏教における”梵我一如”である。
帰納的論理とも言えるが、なにより世界観として魅力的だ。
本作における犯人は、自分を形作るさまざまな関係を消し去り、名実共に織作家の当主となりつつあった。
だが、彼女はすべてが終りかけたとき、自ら気づく。
他人との関係性があって初めて、自分という”個”が存在するということを。
自ら引き起こしながら、その聡明な頭脳をもってして連続する事件の仕組みを理解することもできず、斃れ行く屍の山が積み上がることを止められなかった。
犯人にとって、それは”望んでいたことではあったが、悲しいのもまた、真実だった”という。
その計画が、血縁や姻族、夥しい数の関係を切り落とし、終幕にて犯人が流す涙はまるで、透き通った心の失血を隠喩しているかのようだった。
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世界に未到の地はなくなり、蜘蛛の巣のようなWWW(World Wide Web:世界に張り巡らされた蜘蛛の糸)とも呼ぶ、電子情報によるネットワークが、世界人類を絡め取っているかのようだ。
それはまた、犯人が自縄自縛に陥った小説の結末が、比喩のように私に訴えかけてくるように感ぜられる。
犯人は、本心と行動の乖離に気づけなかった。
「居場所が欲しかった」
「だから作る」
「どうせ取るなら、一番いい所を。誰だってそうでしょう」
そう嘯きながら、彼女は涙を流していた。
彼女は、女だ。
自分が何をやっているのか、自分でもわかっていなかった。
彼女に居場所は、本当になかったのか。
なぜ、彼女は犯行を止められないことに涙を流したのか。
彼女と私は、他人だ。
それぞれ違う。
私は、他人と向き合いたい。
孤独は嫌いだ。
素直に、和やかに生きたい。