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嫉妬の泥濘に槍
もっと上手く書きたい。誰かの心に刺さる言葉はなんだろう。どうしてあの人が讃えられ、私はダメなのか。創作は沼だ。浸かる瞬間はワクワクする。けれど一寸先は、天国か。それとも……。
すべてを握るのは、他者じゃない。それはあなたの心だ。けれど目指す道があるならば注目されるか、評価を受けて選ばれるのが近道である。
何年もネットの海で仕事してきた私自身、記事がバズるかどうか。読まれるか否か。それが「仕事に繋げる」「何か売りたいものがある」などのプロセスに繋がるという例を、これまで何度も目の当たりにしている。
けれどその道を目指すと苦しい。自己評価と違い、他者の心は相手ありき。期待すればするほど、そこは暗くて深い泥濘だ。道の先に続く坂が急カーブくらいなら、まだいい。ずっと先が見えないのだ。急にドカンと捕まれることもあるが、そんな時に限り「心の準備」ができておらず、右往左往してしまう。さらにその道で引っこ抜かれると、そこには見ず知らずの無数の正義が存在する。それぞれの正義たちは形も色も異なり、まるでカラフルな金平糖みたい。星は光り輝くほどに、槍に何度も突かれていく。
面倒なことは避けたいし、できれば目立ちたくない。にも関わらず私は、ライターを始めた頃にあえて「ヤフコメに載りそうなメディア」にたくさん応募しては落選を繰り返していた。100件くらい応募した頃だろうか。少しずつ採用され始めた。嬉しかった。
それから、記事も星の数ほど書いた。シェアした記事を通じて、スカウトもたくさんもらえた。私の記事についたヤフコメもたくさん読んだ。100件のうち一件でも褒められたら「お」の字の世界だった。人知れず涙を拭い、傷に絆創膏で応急処置を取りつつ。それでも私はひたすら書き続ける。なぜなら、それが私の仕事だからだ。
あの時代を後悔しているかって?答えは「ノー」。むしろあの頃がなければ、大手から声もかからなかったし、ライターの仕事は続けられなかった。きっと今頃、燻ったまま消えていた。
ぶるぶる震えながら目立つことを覚悟した上で、あの時。塵になってよかった。どうせ燃え尽きた灰は、また地に戻るのだ。そこから芽を伸ばし、また幾多もの実を残す。だから私は何度も再生する。増殖を重ねる富江のように。
とはいえ「世間を敵に回すと戻ってこれない例」も何件か見てきたので、ある程度のK点と秩序は守っておきたいところである。
著名な人たちとも、仕事や何かの縁で何人か会ってきた。そこで学んだのは、彼らが「人に選ばれるため」に並々ならぬ努力をしていること。けれど、それを表にあえて出そうとせず、軽やかに笑顔を振り撒いている。だから人が集まるし、支持されるのだと感じた。
自分はそうなれるかと聞かれたら、正直「わからない」としか答えられない。ひょっとしたら、もう目指さないかも。理由は、そんな私も気づけばライター歴8年だから。人間とは怖いもんで、たやすく変わる。安定すると嫉妬心は薄れる。慢心は御法度だとわかってるけど、結果がダメでも本気で悔しがれない自分に悶々とする。
すると、嫉妬の炎を糧に活かす人たちが眩しく見えてくる。自分に足りないのは情熱に沿って、心を焦がしていくことではないか。思いは焦がすほどに、その通りにならないことは増えていく。頭を抱えて悩む。怖いけれど、それはとても尊いことだ。なぜなら、悩み抜いて行動した人にしか、心に刺さる答えは出てこないのだから。
じゃあ、そうなるにはどうしたらいいか。それは嫉妬の沼に浸かることだ。そう気づいた瞬間、私はやっと嫉妬する。嫉妬できない自分が、嫉妬をエネルギーに変えていく人に嫉妬した瞬間。この想いは、エネルギーに変えていく。絶対に。そう決意した。
あの頃の情熱を思い出すには、原点回帰。初心を思い出すことが大事。そんな迷える子羊に、もう一度あの頃を思い出させてくれる「noteの感想」をくださった方がいた。うえだしょうごさんである。
@mikumayutan さんの応募記事
— うえだ しょうご (@hekyoma) March 2, 2025
「私は1人じゃない。創作の沼は孤独を救う」
この記事を読んで最も心を動かされたのは、
「この漫画の読者は私1人。誰かに見せる訳ではない。それでも、私という読者を楽しませる努力は惜しまない。だからこそ、キャラ設定にも徹底的にこだわるのだ。」…
↑感想をもらった記事はこちら
うえださんからは「創作とは本来、自分自身を楽しませるための行為だということを改めて気づかされた」という感想をいただけた。その視点はなかったので、感想をもらった瞬間に私は目を丸くする。感想をもらうことで、作品に別の顔が生まれるのは奇跡だ。一辺倒だと思っていた自分の作品が、多面体に見えるのだから。
自分だけで書いていた歪な原石が、いろんな人の意見をもらうにつれどんどん磨かれ、宝石のように光り輝いていく。そういう意味でも「作品」というものは、恐れずにどんどん人の目に触れることが大切なのかもしれない。
感想をもらうことも創作やSNSの沼だ。涙が出るほど嬉しいものもあれば、槍みたいな感想に触れることも少なくない。悲しいけれど、槍は何度刺されても慣れないものだ。でも刺さった分だけ、人の痛みがわかるし寄り添えるようになる。
まぁ、人生なんて短い。槍なんか刺さらない方がいい。でもうっかり刺さってしまったならば、前向きに受け止めて抜けばいい。
えっ。槍すら飛ばないほど、誰からも注目されないって?大丈夫。続けていくうちに、1人でも楽しめるようになってくるから。
それに自分が笑顔でいれば、自然と人も集まるものだ。私はそう信じて、今もコツコツ愛想笑いを浮かべながら、ネットに記事を投稿し続けている。
【完】