noteを純粋に楽しめる理由と、秋ピリカへの参加を振り返る
おはようございます。フリーライターのみくまゆたんです。普段はお仕事で執筆しており、noteは「サードプレイス」という感覚があります。
サードプレイスとは、家や職場とは異なる「第三の場所」です。サードプレイスでは、難しいことは深く考えません。日々のストレスから解消され、自分らしく過ごすためにある場所だと捉えています。
でもだからとは言え、なんでも書いていい訳ではないし、あわよくば「仕事に繋がったらいいな」という思いは頭の片隅にあります。
私の場合、下手なことを書くと仕事でマイナスになる可能性があります。でもそれが自分でわかっていない部分もあるので、「やばいこと書いてるのでは?」と感じたら、こっそり教えてください。
これは私の憶測ですが、SNSで炎上してる方々は、何を言ったら燃えるのか。人に怒られるのか。わからないからじゃないでしょうか。もちろん、狙ってあえて燃やしてる人もいるかもしれないけれども。
俗にいう「組織のトップの人」の発言が燃えたりするのは、意見に賛同してくれる人や媚びへつらう人は多いものの、周りに注意してくれる人がいないからなのかも。そう思うと、ちょっとだけ可哀想だなぁと思うとともに、注意してくれる人がいるなら大切にしたいです。
コンテストも、参加するならできれば受賞したいです。惨敗続きですが、コンテストに色々参加して思ったこと。それは素敵な作品を、宝探しのように発掘できる喜びを感じられることでしょうか。
私の場合、あまりにもいい作品に出会うと、受賞の悔しさよりも「嬉しい」や「いい作品に出会えて良かった」という気持ちが混ざってしまいます。
才能やセンスという言葉では片付けてはいけないとは理解していますが、インターネットの海の中で、光輝く一本筋のようなものが見えると、胸がドキドキします。その瞬間に出会うのが楽しくて、私はコンテストに参加するのをやめられないのかもしれません。
創作大賞も、秋ピリカも落選しましたが、参加して良かったと思えたのは、素敵な作品や才能のある方々にたくさん出会えたからこそ。そして、私にとっていろんな方々の作品に目を通すことは、勉強でもあります。
どのコンテストに参加した時も、なぜか審査員様の苦労に思いを馳せてしまいます。その理由は、私自身がこれまでリライトの仕事などに携わったことがあるからかもしれません。
人の作品を読むのは楽しいけど、それが仕事になると別の神経を使います。審査員とリライトの仕事は、全然異なるものだけれども。「仕事」として、誰かが作った作品に向き合う時って、自分だけで作品を作り上げる時とは違う大変さがある気がしていて。
そういう理由もあってか、コンテストが終わった後は不思議と「審査員のみなさん、お疲れ様です。ありがとうございました!楽しかったです」という気持ちになりました。
優れた作品と出会うと「こんな風に自分は表現できない」と思うこともしばしば。そう思うのも、「自分を知る」「足るを知る」と言う意味である意味勉強ではないかと。
自分の実力を知ることで、逆にこれからどうしたらいいのか。諦めて他に進む方もいますし、たりない部分を補うために邁進する。
どんな道も正解だと思っています。
でもそうやって思ってしまうのは、心の片隅にnoteは「自分にとって、サードプレイスだから」という思いがあるからなのかもしれません。それが良いのか、悪いのか。自分でも答えはわかりません。
自分なりの本気は出しているつもりでも、全てを賭けている人には心のどこかで敵わないのかも。けれど、参加して「楽しい」と思えたり、自分なりに価値を感じられたらそれもアリじゃないのかなと。ここ最近、noteのコメントのやり取りを通じて、私自身も学べた気がします。
打席に立ち続ける。時には、心が折れそうになるかもしれないけれども。それでもバッターボックスに立つ。
空振りでもいい。いつかは、ヒットするかもしれない。この考えは甘いかもしれないけど、そのスタンスでこれからもnoteと向き合っていきたいです。
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