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「を・に」の違いが気になりすぎて眠れない

ある小説で、以下の文章があった。

「おれは、彼女を恋しているんだ。」

私は違和感を感じた。普通、あなた「に」恋している、ではないのか。「おれは、彼女に恋しているんだ。」うん、こちらの方がしっくりくる。では何故、「に」ではなく、「を」が使われているのだろうか。その助詞が気になって、今日、ずっと頭の中で「を、、、に、、、を、、、に、、、」と反芻していた。(何と贅沢な日曜日の過ごし方なんだろう)

そもそも「に」と「を」の違いは何なんだろう。
私は「に」は時間の区切りや、対象物に向けた言葉1本の線のような印象がある。○時に始めます。○さんに伝えてください、など。対して「を」は目的語に向けての熱量が、より大きく、明確な印象がある。○を取ってください。など。どちらも似たような場面で使われるが、熱量の違いが文章の違和感に繋がっていたのだろうか、、、?まだ腑に落ちないので、Googleで調べてみた。

すると、使役(〜させる)の文章において、「を」と「に」は決定的な違いがあるのだそうだ。

A.「息子を学校に行かせる」
B.「息子に学校に行かせる」

「を」は発話者(使役者)の意思が反映されており、「に」は被使役者の意思が反映されている。
Aの文章だと、父親母親などの発話者(使役者)が対象者の意思に関係なく、続く動詞の行動を強制させている、といった印象で、Bの文章だと、若干だが学校に行くかどうかの選択が息子の意思に委ねられているような印象になる。

となると今回の文章はどうだろうか。

「おれは彼女を恋している。」
使役の文章ではない。なので上記の解説と全く一致したものとは言い難いが、「を」を使っているあたり、発話者の意思が「に」よりも強く出ている。そして、「に」という線が引かれたような助詞ではなく、「を」という対象物そのものピンポイントを指している強さが感じられる。

もしも、あえて「に」を使用しないことで、目的語の意思を介在させないようにしたのだとしたら、とても美しい文章だと思った。
「おれは彼女を恋している。」
彼女の意思は介在していない、おれ「だけ」の彼女への溢れんばかりの恋心、そんなものを感じさせられる。

つくづく日本語は難しい。この文章を書きながらも、あれ?この助詞で言いたいニュアンス間違っていないかな?と不安になってくる。難しいからこそ、心の機微を伝えられる言語だと思う。

ちなみに読んだ本のタイトルは「楽園のカンヴァス」(原田マハ)である。

グイグイと芸術世界に引き込まれ、旅をしたかのような、この旅を終えたくないと思えるような小説だった。そして原田さん自身、この「を・に」は意識して使い分けたのだろうか。
聞いてみたい。。。いつか聞いてみたいなぁ。

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