転がる心
とは有名な徒然草の書き出しだが、自分の日常には「徒然なるまま」な時間が殆どないことに、このたび気づいてしまった(苦笑) 隙間ができると、すぐに次のことを始めてしまうし、なにかの作業中にさえもスマホで音楽やポッドキャストの番組を流してしまい、「心に移りゆくよしなし事」と向き合う時間を殆ど取らないほど、情報の海に浸かって生きている。
そして気がつけば、音楽に聞き入ったり、ポッドキャストのトークに笑っていたりして、自分の思考は中断することがしょっちゅうである。一言で言えば、集中力が落ちた、と感じている。
仮に自分の思考に向き合ったとしても、今の私の思考は非常に現実的なことばかりである。今日の献立、仕事の予定、家事の段取り、子どもの用事、趣味のヨガにいつ行けるか、などなど。
悩み多かった思春期に、担任の先生(とあるスポーツで国体に出ていたことのある体育教師で、とても男前な、かっこいい女の先生だった)から、「そんなふうに悩むのは暇だからだよ、大人になったら忙しくてそんなこと悩んでる暇なんかないよ」と言われたのを、ああ、こういうことなのかな、と思い出す今日このごろである。
10代のように悩みたいわけではもちろんない。ただ、「集中して考える」ことをしたいと思う。このコラムのテーマである、「心たちのすること」についても、その他のことについても。
私の「心」は何をしているだろうか。
私の「心」は、どちらかと言うとポジティブで、一日中ずっとではないが、ほぼ毎日幸せや感謝を感じている。空が青いとか、お風呂のお湯が温かくて気持ちいいとか、コーヒーが美味しいとか、そんなことで幸せになれるタイプの人間である。今の自分の「心」について考えると、弾んだり転がったりする、パステルカラーの小さな球体みたいなイメージが浮かんでくる。そのコロコロ転がる「心」を携えて進んでいて、時々その球体がどーんと壁にぶつかったり、誰かに踏まれたり、水に濡れてべちゃっとなったりする。そうするとうまく転がれなくなって、立ち止まる。心が痛かったり、腐ったり、重くなったりすると、身体も動かなくなる。元気なつもりで転がり続けていても、疲れた・・・と留まることもある。
カウンセリング室で、クライエントさんと向き合っているとき、私の「心」は相手の「心」にチューニングを合わせて、一緒に震えたり、縮こまったり、暴れたり、しようとする。つまり、言葉の回路を通さずに、相手の心に合わせて動いてくれる。(科学的には、それはミラーニューロンの働きによる、ということらしいのだが)
私達の心は、落ち込んだり怖がったりしていても、誰かの心が、寄り添ってくれるとき、また立ち上がったり、転がりだしたり、元気に弾んだりし始めることが出来る。と私は思う。
なので今日も私は、コロコロと転がる心で、相手の心の揺れや、傷つきを、感じ取り、寄り添おうと務める。ああ、そうか、言葉を通して考えたり悩んだりする以外に、心を感じたり使ったりすることが、10代の頃よりうまくなったのかもしれないな、と思い至ったところで、今日は筆を置こう。
(M.C)
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