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リニューアルしたご利益なのか、すごい文芸批評に出会いました。

みこちゃん別働隊noteは、別働隊がゆえに時々、その姿を大きく変えます。

「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」のならいに従い、いまや、こんなものになりました(爆)。


習慣になる行動読書術 (7)

完全にYouTube連動型noteになっちまっただよ。ほんと極端な性格だなーと、自分でも思いまする( U_U)。

新しいことをするのに古い、すてに克服したものをきっぱり捨てるのはいつもの私なのですが、いつもそのたびにこれまでになかった発見や出会いがあります。

noteで久々に本格的な文芸批評を読ませていただきました。

でも、普段はまったく文芸批評を書いていない方ですので、ご紹介したくなり、無断で紹介しちゃいます。

私も、とても楠瀬さんのようには読めておりませんが、中島敦は天才中の天才だと思っており、また、大岡昇平はこれは読み取る部分が同じであっても、結論の引き出し方が楠瀬さんとは正反対なれどその重要性において、なんで平成令和は彼を取り上げないのか、不思議でならないと思っています。

もっとも私は、戦後日本の思想状況のねじれ(加藤典洋氏のいうジキルドハイド)の体現的小説、そして保守思想の復権の足がかりとしてしか読まないのに対して、楠瀬さんは、戦後民主主義教育を受けられた方として(この表現は御本人の記事中にあります)、大岡昇平が特攻隊に対してなぜ、あのような一見すると特攻精神を賛美するような言葉を残したのかに強烈な違和感を感じておられました。

しかしながら、楠瀬さんの論考はその違和感を掘り下げ、非常に高次元なレベルで大岡昇平の戦後に対する立ち位置を浮かび上がらせており、それを同時に中島敦の『李陵』に重ねる。

とても鮮やかでありながら、文芸評論としての重厚な射程を持った筆致に敬服いたしまして、コメントを書かせていただいた次第。

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本当は、私が名前を出さずに匂わせた山崎正和氏の森鴎外論などの続きや、明治国家についてもお話がしたいな……なんて思いましたが、これが初対面なので、ずうずうしいと思い、やめておきました。ただ、匂わせた山崎正和については、楠瀬さんはしっかり反応してくださり、あそこで続きを書くかわりにこちらでどうしても書きてみたくなったのでした。

なぜ鴎外についての論考が、ほとんど山崎正和氏のそれだけが、この平成令和の時代に読まれるべき唯一の本なのかというところに、私はかねてより引っかかりがありました。もちろん他に読むべき鴎外論がないと断言すると、炎上しそうなので言い訳しておきますと、暇な国文学者でない私のような一般人にとってはですけどね。

どういうことかといいますと、「鴎外は右翼である」ともし断言したらどうでしょう。

これは、違いますよね。
しかし、鴎外は何から何まで文句のない右寄りの体現者であり、体制派の権化といっていい経歴の持ち主です。しかし、彼はどこからどう見ても右翼ではない。これいかに。

右翼というのは右翼になりたかった人がなるものであり、彼のように大した苦労もせずに(本人はそうでもないんだろうけど、凡人の私にはそう見える)明治国家のご褒美人生で栄耀栄華を極めた人間にとって、いまさら右翼なんてばかばかしいわけですね。

だから、右翼には鴎外は人気がありません。

ここに、私は平成令和の右翼思想、及び右翼運動、あらゆる保守回帰の試みの弱点の根源があると思うのです。

多くの左翼活動家のトップが実はブルジョアジーであったように、多くの右翼活動家のトップは、国体だの、日本国だのというのにまったく無縁の家庭で育った者が多いのではないか。検証はしていませんが私はそんな感覚を持っています。

何が言いたいのかというと、今日の我が国における右傾化というのは、この、根無し草的な漠たる不安の概念が、それを素朴に伝統なるもの、依って拠ちたい共同体として求めらているのに過ぎないのではないか。

真性の保守とは鴎外のように右であることを、当たり前のように受け入れるあの特異な心性なのではないだろうか。

かのように、つまりファンヒンガーの『Philosophie des Als-Ob』です。かのようにの哲学としての保守思想が、令和時代には必要なのではないかと、みこちゃんは強く思うのです。

今では、日本人個人が根無し草であるだけでなく、日本国という国家そのものが根無し草になってしまっている。正確には、敗戦時の戦後民主主義の根無し草がついにあからさまに暴露されたというだけに過ぎないんだけどね。

中島敦と大岡昇平において国家自体は、彼らがそれに拭い難い違和感を持ったにせよ、根無し草ではなかった。

今の日本は、明治維新から明治国家を普請(山崎正和)していったあの時代と似ている。
大きく、絶望的に違うのは普請が必要だとは誰も思っていないこと。そして最も問題なのは、みんなで日本国を普請しなければいけないのに、屋上屋を架すという無駄なことをして遊んでいる連中の声が未だに大きいこと。

とはいえ、問題の核心はそういう人たちを叩きのめすとかそういうことじゃない。自分の不安を解消しようとして保守を希求したところで、ほんとうの意味での保守思想は成立しないのではないか。イデオロギーが完全に雲散霧消したこの現代社会において、心性、心のあり方としての保守というのが、平成令和の時代には求められるのではないかと思います。それに気がつくことがいちばん大切なのではないだろうか。

そうなると、みこちゃんとしては、遠い将来はすべての日本人は保守思想の持ち主になりそうで、なんだかとても未来に希望が持てます(爆)。

こんな話をコメント欄に書こうと思ったのですが、やっぱりやめて正解でした。

鴎外のことを考えているうちに、そういえば、そういう自分も漱石ほど鴎外は読んでいないな、と思い至りました。

いつか、今度は、鴎外の「遺稿シリーズ」を書いてみよう。そう思いました。

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