ないのは「時間」ではなく「今」
6歳の一時期、頭の中で「今」をとらえようと頑張っていたことがある。
1時間、1分、1秒といった時間の概念はわかる。でも「今(この瞬間)」というものの正体がどうしてもわからなかった。
当時の私の見立てでは、「今」こそが時間の最小単位であり、「一秒」をはるかにしのぐ短い幅の何かのはずだった。その「最小の時間」を、私は体の感覚でつかみたかった。こういう変な欲望にやたらと取り憑かれやすい子どもだったのだ。
私はひとまず頭の中で1秒を割って、どんどん薄くしてうんと素早く「今ッ!」と思うことでそれを達成しようと試みた。極限の俊敏さでそれができれば、なんらか体感できるものがあるんじゃないかと考えたのである。寝る前など、全身に力を入れて何十回も真剣に「今捕り」に励んだ。
が、やがてそれでは駄目だとわかった。思念は遅い。「今ッ!」と思う間に、どう考えても一瞬以上の長さの時間が流れている。いくら思念を頑張って圧縮しても(そんなこと実際にはできていないのだけれども)、それが私のイメージする、針の先のような極小の「今」に接近する気がしなかった。
思念は、実際の時間(というものがあるならば)よりも遅れをとるし、体積が大きい。それが私の、頭の中だけで繰り返した実験の結論だった。
ということは……。
その結論をもって、私はさらに考える。
「『今』というのは結局、実際の『今』が通り過ぎたその一瞬あとに思い浮かべるイメージのことなんじゃないか?」
1分や1時間といった時間の単位は、時計の針を見ていればわかる。でも「今」はそういうたしかな計測方法がない。ということはつまり、頭の中にしかないのだ。そして頭の中にあるものは、だいたい自分のイメージのはずだ。「針の先のような極小の今」というのがまさに、私の勝手なイメージである。
「今」とは、「今というイメージ」のことでしかない。
そう考えたらとても得心がいった。それで気が済んで、頭の中で妙な「時間の輪切り」を繰り返すのもやめた。
「今」をちゃんとイメージできればそれは頭の中に残るし、味わえる。何かにのめりこみ、夢中のひと時を過ごしたあとの「今すごく楽しんでいたな」という感慨やなんかを、「今」が通り過ぎたあとにちゃんと頭の中で広げておくことが重要なのだ……。
30年前に拙く発見したその「今理論」のことを、最近頻繁に思い出す。
乳児を育てるフリーランスから乳児を育てる会社員になって、最初の1ヶ月が過ぎた。
フルタイムで働きながら子どもを育てるってどんな感じなんだろう、とドキドキしながらの就業だったが、まあ想像の三倍大変だった。フルリモート可の職場でそんな甘えたこと言ってはいかん、とは思うものの、それでも大変なものは大変なので仕方がない。
子どもの送迎、食事や風呂の世話、病気のケア、遊び相手などの時間に一日8時間の労働時間をぶつけると、自分の思い通りになる時間はほぼ残らない。子どもを寝かしつけたあとの1~2時間がかろうじての自由時間で、このnoteももちろんそこで書いている。元気なときの2時間ならともかく、口がきけないくらい疲労困憊した状態での2時間だから目が回りそうになる。
時間がないなあ……。
疲れて文章を書くどころでないとき、ふとその考えが頭をよぎる。でも同時に、違う、と打ち消す声が頭の中に響く。
時間が私の元から消えたことはない。ただ、今を想う時間が減ったのだ。
もちろん、前は4時間あったフリータイムが2時間になり1時間になり、という現実的な変化は大きい。でもそれ以上に多分、「今」のイメージを頭の中にひろげて、舐め回す機会が減っている。
「今」のイメージを頭の中にこしらえないからこそ、「時間がない」感覚がより強くなっている。
哲学者の渡辺由文は、「時間は実在しないが、実在は時間的に捉えられ得る」と『時間と出来事』で書いている。その説に従えば、起きる出来事を”モノ”的に解釈し、前後や因果といった概念でひもづけて「時間軸」上に配置したときに発生するのが「時間のイメージ」であり、ほぼほぼ時間の正体だ。
今の私の頭の中では、「子どもにご飯を食べさせる」「保育園」「労働」「子ども用の作り置きづくり」などがみっちりと隙間なく並べられ、常に未来のことばかりイメージするモードになっている。それが「時間がない」の実態である。未来のことをどれだけ効率的に考え、それに従って動けても、「今のイメージ」が頭の中になければ、今この瞬間に時間があるような感覚は得られない。
と、マインドフルネスみたいな話になってしまったが、結局今の私に必要なのはそういうことなのだと思う。脳内をTODOリストで埋め尽くしていないで、「今」を思い浮かべた方いい。
今日は寝る前に、久しぶりに時間の輪切りをする。