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18歳の君は、「大丈夫だから心配」だった

 今日、三十六歳になった。 
 そのことをふまえて何か書こうとパソコンに向かったところ、なぜか高校三年生の時の担任教師Sの言葉が頭によぎったので、それについて書くことにする。

 あれは高校卒業間際の、最後の担任面談をしたときのことだ。S先生はしみじみした声で、十八歳の私にこう言った。

「俺はお前のことが心配だよ」

 彼が私を心配する理由はおおよそ推測できていた。私が、T高校2005年卒の主流とはとても言えない進路をとろうとしていたからである。
 T高校は、地元で中の上程度(正確に言えば中の中の上くらい)とされる公立の進学校だ。卒業生の大半が大学に進学し、残りはだいたい専門学校に行くか浪人する。卒業後すぐに就職したり、出産して家庭に入るような生徒もいるがやはり稀だ。そんな中、私は経済的事情から大学には進学せず、かといって就職も選ばずフリーターになる予定でいたのである。すでに三年生の終わりがけからは、地元の大型書店で働き始めていた。正規の就職でなくアルバイトを選んだのは、私の中にこれがあくまで仮の進路だという気持ちがあったからだ。今は無理でも、自分で資金を貯めて、一年後か二年後にはもう一度大学受験をするつもりでいた。
 そんなふうに、「大学にも専門学校にも行かずちゃんとした就職もせず、予備校に入るでもなく卒業する生徒」は、当時三百数十人いたその年の三年生の中で私くらいだったらしい。当時も就職やそれに近い進路を選んだ生徒は若干名いたが、私は彼らとも異なる状態だった。「大学には行くが、今すぐではない」というのが私の考えだったのだ。それは私が親にも教師にも強制されず自分で決めたことで、自分としては納得できる選択だったが、周りには理解されづらかった。実際、進学とベーシックな浪人しか前提としていない教師の中には、私のプランをはなから馬鹿にするような人もいたのである。
 もっとも、幸いなことにS先生は私の考えを否定しなかった。「進路はこうしますから」、と最初に伝えたときも特に反対された覚えはない。T高校にやってくる前、県内でも屈指の荒廃したヤンキー高校で生徒に蹴られたり、喧嘩する生徒を抑え込んだりしていた彼は、フリーターになるつもりの生徒の一人や二人では驚かないのである。ただちょっと心配なくらいで。

「心配ですか?」

 S先生の言葉に私は笑った。笑いながらも、S先生には他にもいろいろと心配をかけてきたよな、と申し訳なく思った。何しろ私は、生徒会長を二期つとめていたにも関わらず学年最下層レベルの成績で、特にS先生の受け持ちである数学は壊滅的だったのだ。まったく何度追試をやらされたか(させていただいたか)わからない。おまけにしょっちゅう学校を休む。半分は本当に体調不良だったが、残りの半分はサボりだった。その結果1年に40日近くも欠席してきた私は、ちゃんと卒業できるかどうかすら怪しかったのである。そんな生徒は、私の他には当時パチスロにハマっていたクラスメイトのIくらいだった。その二人が両方同じクラスにいたということは、やはりS先生は問題児担当をやらされていたのかもしれない。
 そう、本当に苦労をかけた。でもそれももうまもなく終わる。私はなんとか卒業できるし、アルバイト先も決まっている。あとはせっせと働いて、家計の足しを作りながら地道に貯金したり勉強したりするだけだ。私の脳内には、高校時代に読み耽ったたくさんの文学に出てきた、「若くして働きながら夢を追う若者」の像が無数に浮かんでいた。

「大丈夫ですよ。これまでだってずっとバイトしてきたし、生活としてはたいして変わらないんです。仮に進学できなくても、私の将来の夢は作家だから学歴なんか関係ないし」

 私はS先生を安心させようとして、何度も大丈夫だと口にした。
 しかしそれを聞いて、S先生は心底困ったような顔をしたのだ。今でもよく覚えている。なんとも不思議な表情だった。顔の下半分は微笑んでいるが、眉毛と目は私を通り抜けて床の方を悲しそうに見ている。後にも先にも、そんな彼の顔を見たのはそれが初めてだった。そして彼はこう言ったのである。

「宗岡はなあ……本当に大丈夫だから心配なんだよ。本当に、自分ひとりでなんとかしちゃうだろうからさ」

 私は驚いて黙った。言われた言葉の意味はよくわからなかったが、それでもなぜか、痛いところを突かれたようなショックがあった。言われたくないことを言われたと感じた。
「大丈夫だから心配」って、「一人でなんとかしちゃう」ってなんだろう? 大丈夫なら心配しなくていいんじゃないの? S先生が言いたいのはつまり、私は結局のところ”真に”大丈夫なわけじゃないってことなんだろうか? まさか。
 次の瞬間、胸の中から謎の不安がせり上がってくるのがわかった。それは私が普段、なるべく見ないようにしているものだった。だから私は大急ぎでそれをしまい込むと、「とにかく心配しなくていいから」とS先生に念押しをし、面談を終えた。家に帰ってからもその発言のことは努めて忘れるようにした。そもそも、やっぱり「本当に大丈夫だから心配」という言葉の意味もわからなかったのである。
 わからなかったから、自分に言い聞かせた。
 いや、私は大丈夫だ。九歳の時から母子家庭だったから、大人に必要以上の手間をかけさせず、一人でやっていくことには慣れている。妹弟が小さかった頃は彼らの面倒だってみてきた。バイト先だっていつも自分で決めて、毎月目標金額をきちんと稼いだ。美容院代だってなんだってなるべく自分で出してきた。大人と接すれば、誰も彼もが「しっかりしてるね」と言ってくれる。このまま歳を重ねていけば、ばっちり自立した人間になれるはずだ。勉強は苦手だけど、大学に行けないほどではない。だから大丈夫なはずだ。きっと。

 その二年後、私は実際に地元の大学に進学する。入学してからも母ともども学費の支払いに追われて大わらわだったが、多額の奨学金と、ほかにもいくらかのローンの返済予定を残しつつ四年で卒業できた。その後は地元を出て上京し、会社に勤めたりライターをしたりしながら必死で働き、借金を返していった。仕事で大成功を収めたこともなければ、二十八歳の終わり頃になるまでまともな恋愛をすることもなかったが、とにかくそれが私の、「大丈夫」を敷き詰めた黄色い煉瓦の道だったのである。
 そこを歩いていく間、自分が自立に向かっている感覚はあるにはあった。でも一方で、奇妙な矛盾も感じていた。誰の力も借りずに、誰にも面倒をかけずに生きていけるようになりたいと思えば思うほど、そして実際にそれっぽい状態に近づいていくほどに、なぜか自分の中にねばっこい甘えが見えてくるのである。拭いても拭いてもとれない汚れのように、なぜか視界の端にいつも入ってくる。
 見ないふりをしてきたそれを受け入れられるようになったのは、三十歳になる頃だった。私はやっぱり、本当のところでは甘えていたのだ。誰に? 親に。大人に。世間に。
 「誰にも借りを作らず、迷惑をかけないように生きている」自分になりさえすれば、誰かに褒められて労われてすべてが報われると思っていた。そうやって「誰か」の承認を求める精神こそが、いや「誰かの承認を求めていること」自体から目を背けていることこそが、私の幼さだったのである。それは私が実際に働けるかどうか、大学に行けるかどうか、自立できるかどうかなどといったこととはほとんど関係がない。
 それに気づき始めたとき、S先生から言われた「お前は大丈夫だから心配なんだ」という言葉の意味がいくらかわかったような気がした。私はたしかに、ある面ではしっかりしていた。だけど別のある面では、哀れなくらい大人の承認を求めている子どもだったのだ。
 ヤンキー高校の生徒含め、いろんな境遇の生徒を見てきたのであろうS先生には、そんなことは一目瞭然だったに違いない。普段の高校生活のどこで私のそういう面に気づいていたのかは今もって謎だが、なんでもひとりでやりたがり、周りに助けを求めず、最後まで意地を張り通す姿を彼には見られていたのだろう。

 あの時のS先生くらいの年齢に達した今、昔の私のような子どもを見たらどう思うかというと、やっぱりちょっと心配にはなる気がする。そしてその子に「私は大丈夫だよ」と言われたら、「だからこそ心配だよ」と返してしまうかもしれない。「もっと甘えた方がいいよ」なんて安直なことを言っても無駄なのがわかるからこそ、せめてもの意思表示として「心配だ」と口にするかもしれない。

 あの面談から、私はとうとう二倍の歳をとった。
 今の私は、自分がベッタベタに人に甘えたい、褒められたい人間であることを知っている。そのことを恥ずかしいと思う気持ちがないわけではないが、まあ多少の羞恥も含めて私だからしょうがない。そしてありがたいことに、甘えさせてくれる配偶者と一緒に暮らせている。それだけが理由というわけでもないが、「(意地で)一人でなんとかしちゃう」ことばかりでもなくなった。
 そんな今の私を見たらS先生はどう言うだろう?

 わからないけど、今の私が言う「大丈夫ですよ」なら、前よりもう少し彼にも安心してもらえる気がするのだ。三十六歳の私は少なくとも、自分が全然大丈夫じゃないことを知っているから。




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小池未樹
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