自由なパリの「モード学校」
一大決心してパリに渡った私はまず、「ステュディオ・ベルソー」というプライベートの小さな、でも業界では有名なデザイン学校に入った。
すでに文化服装学院を卒業し、地方にある文化の連鎖校に教員として5年間働いていた私には学校は必要なかったかもしれないが、フランスでの専門学校教育とはどんなものか見たかったし、仕事をするために、フランス語の「ファッション専門用語」も覚えたほうがいいと思ったし、業界関係者とのコネクションも作らなければならなかった。
何より渡仏するためのビザが必要だったから、色々考えて最終的に「学生ビザ」を取得してフランスに入国した。
ステュディオ・ベルソーは、どちらかというとデッサン、美術史などの基礎知識、デザインをする上でのリサーチや、デザイン展開の仕方を学びながら、美的感覚や個性を磨くということに重点を置いた授業がメインだったのだが、その教育方針が気に入っていた。
その後、ラグジュアリーブランドのデザインステュディオでデザイナーとして働くときに、私にはその授業が非常に役に立った。
校長のマリー・ルッキは本当に個性的で、もう十分に年齢を重ねた女性であったが、おしゃれで粋で、どことなくとっつきにくそうな、絵に描いたようなパリジェンヌだった。
私が入学した2000年当時はまだ、室内で喫煙が禁止ではなかったので、マリーをはじめ、講師たちは皆、授業中にタバコをくわえながら私たちに指導をしてくれた。
また、デザイン画の授業で、固形水彩絵の具の使い方をマリーが教えてくれた時には、その場に筆洗バケツが用意されておらず、アシスタントに頼んだ水を待てなかったマリーは、生徒たちの前でいきなり「ぺっ」っと唾をパレットに向けて吐き、それで絵の具を溶かして色を塗りはじめ、何事もなかったように授業を続けた。
その衝撃的な出来事に、生徒たちはただただ苦笑するしかなかったが、彼女には何か憎めない魅力があった。
毎週金曜日にある、作品発表の日の先生方のコメントも辛辣だった。ダサい作品にははっきり「ダサい」とみんなの前で言われて、すでに日本で社会人を経験している29歳の私にはショック過ぎていまだにトラウマになっているような思い出もいくつもあるし、逆に素晴らしい作品と思われた時には本当によく褒められた。
だから作品を先生方に批判されたり、そういう指導の仕方に納得のいかなかった生徒の中には、退学する者も少なくなかったが、私としては、辛くても学生のうちに本音のコメントをもらった方が、業界に出てから影で笑われるよりもよっぽどマシだと思っていた。
結果的に、私がベルソーで学んだのは一年間だけだったが、マリーをはじめ、個性的なベルソーの先生方の教え子になれたことは本当に良かったと思っている。