薄っぺらい技術はまっぴらごめん
定型の雰囲気を
醸し出している
文章を目にして思った。
誰かに教わって書いたもの。
こんな感じで書いてください。
こういう表現はしないでください。
そんな指示が聴こえる。
行間からエネルギーが伝わる。
テクニックを伝えた人間が
教えているのは
ぱっと見を整える技術。
薄っぺらい感じが否めない。
激しすぎると
支離滅裂になるけれど
どうしても伝えたいという
熱量があるときに
そのパワーは文章にのる。
上手い・下手を越えた
書き手のエネルギー。
それが根っこにないと
外壁だけがキレイで
中身が空っぽ
または中がごちゃごちゃの
くつろげない空間になる。
「文章を読む」
「話を聞く」
「作品を見る」
そのとき私が感知するのは
流れるエネルギー。
正しいか誤りか。
そんな基準は本来存在しない。
多少なりとも人が作った
ルールはあるけれど。
それは分類好きの
人間界の共通概念。
幼い子ども達の
絵や文章が大好き。
まっすぐだから。
やりたいことと
やってることに
寸分の狂いもないから。
テクニックを学ぶから
伝わるのではなくて
伝えたいことが相手に
届くように技術を磨く。
美しい食器を揃えても
のせる料理がなかったら
誰も食べに来ない。
素晴らしい食器に
コンビニの惣菜を
のせたような組み合わせの
文章は読む気が失せる。
できあいの品を
きれいに盛り付ける。
たまには悪くない。
確かに見せ方によっては
とても映えるひとしなになる。
だけど好きになれない。
素材を活かして
愛情を込めて作った品を
ぴったりの皿にのせて
どうぞお楽しみください、と
すっと厨房へ消える。
これが私の理想。
今晩は久しぶりに夜ふかし。
おやすみなさい。
(はてなブログ「アレコレ楽書きessay」2021.12.26 転載)
Grazie 🎶