パリ逍遥遊 パスカルを通じて見えてくる人生の意味
見る、聞く、読む、感じると言った五感をフル活動させて、至上の文化・芸術に触れ、真理に魂を震わせる、それこそ最高の贅沢だ。そして、宗教、法律、哲学が長年にわたり浸透してきた地であり、文化・芸術の中心地でもあるパリは、そのための格好の場所である。
ところで、なぜ文化・芸術等々に触れることが最高の贅沢なのかを考えたことはあるだろうか?それは単に美術館やコンサートに行くことと違うのだろうか?ここでは、パスカルの定理や圧力の単位ヘクト・パスカルでおなじみの、パスカルの名言とともに考えてみたい。
フランスの哲学者、数学者、物理学者、思想家、神学者であるパスカルは、その著書“パンセ”(Penséesは、英語のThoughtに相当する語)にて様々な思想を残している。誰もが知っているフレーズ「人間は考える葦である」は、パンセに記載されたパスカルの最も有名なフレーズの一つだ。
まず、パスカルは、人生とは誰の人生であっても悲惨だと説く。
「天国と地獄の間に、この世で最も儚い中間的な存在者(人間)がいる」
「人生という劇は、どれだけ美しいものであっても、ラストシーンは血みどろなのだ。最後には頭に土をかぶせられて、永遠の終幕である。」
ここから読み取れるのは、人間は儚い存在で、必ず終わり(死)があるということだ。そのため、パスカルによれば、人間はその死から意識を遠ざけるために、常に気晴らし(divertissement)を必要としている。
「人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、自分を幸福にする為にそれらをあえて考えないように工夫した」
「そこで孤独の中で考える時間を与えないよう、気晴らしというものが必要になる。賭け事、スポーツ、社交界、戦争といったものが求められる。別にお金が欲しくて賭けをするのでも、獲物が欲しくて狩猟するのでも、彼女が好きで恋をするのでもなく、・・・ただ、考えを逸らせ気を紛らわせる「せわしさ」を求めているのである。」
必ず訪れる終わり(死)を隠すとどうなるか。以下がパンセの中で私が最も気に入っているフレーズだ。
「私たちは何も考えずに断崖の奈落(死)へ向かって駆けていく。断崖が見えないように、何らかのもので目隠しをしてから。」
ちなみに、現代フランス語のdivertissementは、日本でいうバラエティ番組・お笑い番組を示す言葉でもある。我々日本人も、中身のないお笑い番組を見るなど、気紛れとずっと遊んでいたら足下までもう死が来ていて、認識した時にはもう手遅れ。何とも残念な存在なのだ。
ではどうしたら良いのか?その答えもパスカルは用意してくれている。
「これら人間の悲惨を癒す道は、人間の中にはない。至福と人間を結びつけるのは、人間の本性によってではなく、悔い改めと恩寵によってである。神は常に開かれている。心を尽くして求めるものには十分な光が与えられ、そうでないものにはただ暗闇がある。」
人間の悲惨を癒す道は人間自身にはないが、悔い改めと恩寵によって、神から光が与えられる。上記の「神」とか「光」は真理を示すと考えられる(パスカルは、神学者でもあったが、ここではキリスト教とかイエスとうい言葉を使っておらず、単に宗教の話をしているわけでもない)。つまり、いくら自分の中身を探していても答えはなく、答えは真理の中にあるということだ。だからこそ、個々人が内在する悲惨を癒すためには、真理に魂を震わせるために、至上の文化・芸術に触れることが必要なのだ。
ここで気をつけてもらいたいことは、単に旅行先で歴史的建築物を見た、美術館やコンサートで有名な作品を観た・聴いたということと、真理に魂を震わせるために文化・芸術に触れることとは似て非なるものという点だ。前者は、いわゆる気晴らし(divertissement)であり、後者は、悔い改めと恩寵をもってして心を尽くして求める者に与えられる「光」なのだ。
どんな小旅行であっても、たかだか旅行・休日の遊びと言って侮るなかれ。悔い改めと恩寵をもってすれば、あなたと至福を結びつけることができる。