生きることと死ぬことと
表題になっている「だから」という言葉に思いのすべてが詰まっているとまず感じた。それは怒りでもあり、残念な気持ちでもあり、何とも処理できぬ自分の中でモヤモヤしている感情。結果のでないものへの諦めにも似たものとでもいうのか‥。それをどこにぶつければいいのか、どこに言えば自分の思いは叶えられるのか、出口がみつからない悔しさ、惨めな思い。それは”生”への執着でもあり、”生”への諦めるしかない現実との折り合いでもあるのか。
安楽死は生きるということと感じながら読み進めた。
(私は医療者なのでその視点でも書いています)
この本では2人の患者が登場するが、2人ともが”ガン”の患者であること
この本が安楽死に対する問題提起でもあると捉えた時、少し違和感を感じた。
日本では安楽死は法的に認められていないので、疾患としてどこまでの括りを安楽死の対象者とするかははっきりと決められているわけではないが、安楽死を希望する人はガンの人だけではない。先日の医者の自殺幇助でニュースにもなったALSなどの神経難病、認知症なども海外では対象とされている。それぞれの疾患の進行の程度にもよるが、安楽死で対象になろうガンの患者はおそらく長くても数ヶ月、いや週単位の可能性の方が高いのではないかと思う。一方安楽死を望む人の中で神経難病などの疾患の人は、今現在において週単位で刻まれる状況にいる人は少ないのではないかと思う。私自身の勝手な見解ではあるが‥。
一般の人は、ガンの最期は痛みや息苦しさなどがあり大変つらいと思っているのではないかと思う。今は医療が発達し緩和ケアの提供が十分に機能すればそこまでのことはないが、それは医療者などの一部の人間が理解しているところでまだまだ大半はそういう理解しているのではなかろうか。
そう考えると一般の人は、ガンの最期時に痛みや息苦しさをとって楽に死ねることが安楽死と思っているのではないか。緩和ケアといわれる終末期の患者に対して行われる治療が、=(イコール)安楽死と。
そういう意味では緩和ケアが広まり十分に機能し一般の人にそれが理解されれば、ガンの末期で安楽死を望む人は減るのではないかと、私は思う。
ただ、苦痛は身体的なものだけではなく精神的なもの、社会的なもの、スピリチュアルな痛みもあるとされている。実際、緩和ケアが十分に提供され身体的な苦痛が解消されたとして、医療者や家族など患者に関わるすべての人で身体的な苦痛以外の残りの苦痛が解消できるとは思えない。
実際、身体的な苦痛でさえ身の置き所が無いほどの倦怠感や吐き気、嘔吐などコントロールが難しい症状もある。医療は完璧ではないことも忘れてはならない。
また、身体的な苦痛を取り除くことでその奥にあったそれ以外の苦痛が表面化してくる。残していく幼い子供への思いなど誰が解消できるのであろうか。諦めの中の受容。文中のもあったが受容というものの尺度。
どういう心の状態が受容と言い切れるのだろうか。課題は多く感じた。
それらの課題を抱えたまま全てにおいての苦痛の緩和は不可能に近く、その状況からいくら緩和ケアが十分に機能しても安楽死を望む人を減らすことは難しいように私は感じた。
参考に医療者が使用する全人的苦痛の概念の表を載せておく。
Nikkei Bp より
スイスに行って安楽死をしたい…
この場合のスイスは、この国が安楽死を認めているという理由からである。スイスなどの国が安楽死を認めているのは宗教的なことやその国の歴史などいろんなことが影響し合ってのことだろうから私が何かを言える立場ではないと思うが、元々これらの国の人は”死”というものについてどのような理解がされているのかと気になった。
スイスが”死”をどう捉えている国なのか知らないが、日本には『輪廻転生』という概念がある。スイスが安楽死を認めている理由が宗教的な背景があってのことであれば日本も宗教的な介入があれば安楽死に何らかの意識の変化が生まれるのかもしれない。一部のホスピスに神父がいるが、それが広まらないことに答えがある気もしないが、日本人が自分の宗教をもっていないことを考慮すると難しいかも。
本に登場する医療者だけではなく、医療者全体に言えることではあるが、医療者には「生ありき」の意識が根底にあると感じる。
本来、世の常は『陰陽の法則』で成り立っていると言われており私もそれを信じている。昼があるから夜があり、表があるから裏がある。昼と夜は”平等”であり”対等”、どちらかが”よい””わるい”ではなく、どちらもあるということ。その法則で”死”をみたとき、もっと”生”と平等であり対等である。生ありきの意識ではなく、死もまた同じということ。自殺を勧めるわけではないが「生きるのが善し」「生きなくてはいけない」という生ありきの意識による歪み。
それを強く感じるのは、鎮静を開始するかのカンファレンスの部分。月曜日よりも体調がよくみえる、、まだ鎮静の状態ではないのでは?カンファレンスでの討論の中でもそれぞれの言葉の奥に「生ありき」の意識。それはまた患者には「生きなくてはいけない」「生きてなくてはいけない」という無言のプレッシャーになっているのではないのか?もし、仮に「辛かったらいつでも死を選んでもいいよ」と言ってあげたとき、「いつでも死ねるのならもう少し生きてみよう‥」という反応も聞くことができるのかもしれないと感じた。
生を推すからこそ死を望む、、、そういう風に思う私がおかしいのかもしれないが‥。
いつからこんなに”死”というものが遠ざかったのだろうか。そう感じるのは私だけなのか。医療が発達しそれに伴い救われる命も増えた。そして「延命治療」という治療も生まれた。(ちょっと好ましい言葉がみつからない)その医療は「生きるが善し」「生かすがすべて」ともとれる意識を根底に持つ(と私は思う)。
聞いた話ではあるが、今も島では都会のような医療は望めない。そのため自分で飲めなくなれば自然の成り行きと見送る。都会であれば点滴だの胃ろうだの治療が行われる。そこには医療者も家族も『自然の成り行き=死が訪れること』というものを背負う意識、その意識に罪悪感を持つのではないか。誰も罪の意識を背負いたくなくて、できる限りの医療を望むのではないかと感じる。
本来は命は本人のものでありたい。他者の罪の意識を回避するためのものであってはならないと。
もし『自然の成り行き』という治療が当たり前になれば、この時は安楽死が減るのではないのかという気持ちもある。死というものが生の続きであり当たり前の現象であると皆が理解したときに‥。
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