[1分小説] 春になれば
「ちょっと休憩する?」
デートの途中、歩道でふいに立ち止まった恋人の
言葉に、京香は思わず身構えた。
"休憩" というのは、
つまりそういうことを指すのだろう。
「あ、私、その……」
まだ、怖くって。
そう言い出せず、俯くばかりの彼女の様子に、
恋人は ふぅ、と深い溜息をついた。
「無理言ってごめん。今日はもう解散しよ」
そう言ったきり、絡めていた指をほどいた彼は
振り向きもせず駅のほうへと歩いていった。
はぁ。
京香は思う。
もう何度目、いや何人目だろうか。
付き合い始めてから2、3回デートを重ねて
彼らの誘いを拒否すれば、手のひらを返したように
冷たくされる――
立ち尽くす彼女のすぐ横を、仲睦まじく寄り添うカップルが通り過ぎていった。
「そっか。新宿歌舞伎町は、ホテル街なのね……」
少し頬を赤らめながら、
京香は今になって恋人の意図に気づく。
・
この春、京香は大学2年になった。
初めて彼氏ができた女子高生の時からは、すでに数年が経っている。
しかし、京香はラブホテルというものに足を踏み入れたことがなかった。
それだけでなく、彼女は、まだ男性と寝たことすらないのだった。
「え!京香まだしてないの?」
昨日も友人にそう言われた。
周りの友人たちは早々と高校生のうちに、あるいは大学入学後に "初体験" を済ませた子がほとんどだ。
けれど京香はといえば、
恋人たちから「したい」と言われても恐怖感ゆえ、
これまで頑なに全ての誘いを断ってきた。
「どうして、こんなに怖いって思うんだろう…」
望まない妊娠リスクについては、学校で嫌というほど習っている。
"男の子とする" ということに彼女が抱くのは
する時の痛みや、裸になる恥ずかしさ、
何をどうすればいいのか、いま一つ分からない不安
そして、
その時に彼氏が、
自分の知っている男の子じゃなくなってしまいそうな感じ――。
あくまで想像の域を出ないそれらが、しかし、
京香には恐怖でしかなかった。
・
「ジャマだよ」
後ろから歩いてきたピアス面の派手な男が、京香を避けもせずに肩をぶつけて通り過ぎていった。
きゃっ、と声を上げ、
彼女はよろけて歩道の生垣に突き飛ばされた。
「ご、ごめんなさい……」
男の後ろ姿に呟いたが、声は届いていないだろう。
「痛っ……」
思わず声が出た。
倒れかけた体をかばった際、手のひらに生垣の低木の枝が刺さったのだ。
見ると左手が、わずかに血で滲んでいる。
それにも関わらず、京香は自分のことよりも植木の心配をした。
「枝、折れちゃった。ごめんね」
ピンク色の花が視界に入る。満開のツツジだった。
「ツツジ、もう咲いてるんだ……」
力なく立ち上がると、「見て、モンシロチョウ!」とはしゃぐ女の子の明るい声が耳に入ってきた。
近くを通り過ぎた同世代のカップルが、
道に沿って植えられたツツジ並木の上を舞う
1匹の蝶を指さしている。
京香もつられて、ぼんやりとその方向に目をやった。
春になれば、花を求めて蝶が飛ぶ――
京香は思う。
「私の周りにも、蝶が飛んでいるのかもしれない。
でも、きっと私の花は、まだ開いていないんだ……」
いつか、本当に好きな人に、心から安心して、
誘われるままに身を委ねられたら――。
彼女は胸の内で、ひっそりと考える。
それができたら幸せだろうな、と。
「いつか、私にも春が来るといいな」
西日が差す時刻だというのに、ホトトギスが
ホーホケキョ、と出遅れたようにひとつ鳴いた。
密室と親密さを求めて歩く男女と、駅へと向かう人とが入り混じった群れが、春の淡い夕暮れの道を流れてゆく。
その人だかりの中へ、
若木の間をすり抜けた柔らかい風を受けながら、
京香もひとり、静かに戻っていった。
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