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先日書いたこの記事の真相はこれだ‼️ 「ある行旅死亡人の物語」推理探偵・みけ子の考察/後編

前編はこちらから

今回の記事はこちら↓のノンフィクション本の「空白部分」の真相は何???と考えて自分なりの考察をして書いた、創作色の強いものです。流れとして若干矛盾もあるかとは思いますが、その前提でお読みいただければ幸いです。

千津子が尼崎の錦江荘に越してきて12、3年経った。極力周囲との接触を持たず、ひっそりと雑踏に紛れて生きる生活も普通のことになっていた。相変わらず内縁の夫の田中とは自宅アパート以外の場所で会う生活だった。ある日、いつも連絡をくれる田中からの連絡が突然途絶える。千津子は連絡を取ろうにも、連絡する事は止められており、連絡先も知らされてもいない。(ロケットペンダントの中の数字が電話番号?という説もあるようだが)いつも指示される場所に千津子が出向いて会うだけだったから。彼女は戸惑い混乱する。

そんな時、田中の仲間だと言う男から千津子に連絡が入る。そして言うのだ「田中は緊急の事態が起こって、急遽国に帰った。そのうち戻る予定だがその時期はまだ分からない。田中が戻るまで自分があなたとの連絡役を務める。経済的な事も含め、田中があなたとした約束は守るから、これまで通りの生活をしてほしい。当然、身バレがするような目立つ行動は控えるように。そうなった時は、身の安全は保証出来ない」そう仲間に言われた千津子は、忠実に言いつけを守り、これまで通りの生活をする。同時に、田中が消えた後の仲間への資金の受け渡しや連絡も、彼女自身が工作員の一人となって負うことになった。

実は田中はこの時、トラブルによって消されていたのかも知れない。田中はその後二度と再び千津子の前には現れないのだが、「急遽本国に帰った」と説明した工作員仲間は、更に田中を救い出すために必要だ、と称して後に千津子の郵便貯金通帳から目立たぬように少しずつ金を引き出させた。そしてその金は勝手に自分のものとしていたかも知れない。または千津子自身が少しずつ引き出して、慰留金3400万円の一部になっていたのか?

ちょうど田中と連絡が途絶えた時期と前後して、缶詰工場での不幸な労災事故で右手指を全部失ってしまう。労災保険から足がつく事を恐れ生活費も十分だったことから、保険の継続を辞めてしまう。右手指が全部ないという不幸な「目立つ」身体的特徴も負ってしまったため、千津子はますます慎重に臆病に世間から身を隠すようになって行く。その事故の後、身バレを防ぐために千津子の住民票も田中や他の工作員の裏工作で抹消されている。住民票もない、健康保険証も免許証もない千津子は、大金を所持していたとしても住居を移せない。田中や仲間の協力がなければ引越しなどの目立つ行動は、したくても出来なかったのだ。

そのうち一人の寂しさにも慣れ、定期的に田中の代理だと言う男から生活費は受け取り、自らも連絡中継役として工作員の役割をはたしている。長年の生活習慣から故郷に帰ることも、その場所で友人や知り合いを作ることもしなくなってだいぶ経つ。こんな生活を続けているうちに、千津子はすっかり歳をとって衰えていた。そんな、ひっそりと世間から身を隠すような生活は死ぬまで続いた。

ある時、約束の場所に千津子が現れず危惧した連絡役の男が自宅を訪ねるが、そこで千津子は倒れて死んでいた。自宅カギやその他の身元を知らせるものが無いか確かめた後、千津子の自宅アパートの玄関鍵を掛けて立ち去る。連絡役は本国に工作員田中竜次の内縁の妻だった千津子が孤独死した事を伝え、後は口を拭って知らぬふりだ。死人に口なしで、千津子が勝手に孤独死してくれたのは、実は好都合だった。

金庫の中の大金は、開錠出来ずに金庫が重くて無理矢理持ち去ることが出来ずにいたか、もしかしたら工作費用として渡したのがだいぶ過去の話なので金額を過小に考えられていこともあって、そのままにされたのかも知れない。しかし、千津子に渡されていた生活・工作費は実はかなりの金額になっていた。地味で目立つ行動もしなかった千津子はその余剰金の一部も金庫にしまっていたから、金庫内の総額は意外なほどに大きなものになっていたのだ。もしくは内側からかけられたドアチェーンもあり、彼女の死後に工作員が部屋に入る事が出来なかったとも考えられる。鍵がなかったのは、長年住んでいて千津子自身が無くしてしまっていただけなのかも知れない。


…………以上がみけ子が想像した、沖宗(田中)千津子の正体で、その彼女の謎に満ちた生涯だ。全部の謎に答えている訳ではないし、考察や推理としてはかなり雑なので、一般人が想像して謎の空白部分を埋めた、1本の創作文でエンタメという程度に読んでいただきたい。

かつて大阪という大都会に出てきた一人の若い女性。彼女は聡明で目立つ美人であった。そして近くに親戚も居なかったことから、北朝鮮の工作員に目星をつけられた。内縁関係を長く続け元々は社交的な人柄だったのに世間から正体を隠し、周囲に壁を作って生きることが普通になってしまった。そうして北朝鮮の組織の一部として生きることが人生になった。

それが田中が連絡を突然絶ってしまった後もずっと続いた。歳をとってこれまで続けていた日々の生活を自分から突然変えることもできず、住民票など自分の身元を証明するものも抹消されている。相変わらず、田中と直接の連絡は取れないし会うことも叶わないが、連絡役の他の工作員からはコンタクトがある。そして年齢を重ねて高齢者になり、生活を大きく変えたり引越すこともままならない。世間との交流を絶ってしまっていた千津子は、大金を持ちながら粗末な風呂なしのアパートでの生活を続けざるを得なかったのだ。

千津子が田中竜次と知り合った当時は、北朝鮮の金正日が「手当たり次第の外国人拉致誘拐」を命じた時期とも前後する。横田めぐみさんが新潟から拉致されたのは、千津子が田中の名義で錦江荘に引っ越した5年前の11月のことだ。そしてその後、大韓航空機爆破事件が起こったのが1987年の11月29日。北朝鮮が対外テロ活動を活発化させていた時期だ。そんな時代背景で、自ら進んでその人生を選んで生きたのもあったが、そんな不穏な時代に翻弄されて一生を終えたのが沖宗千津子だった、というみけ子の想像だ。

何とも不可解な老女の孤独死事件。これが殺人だったとしたら、もう少し踏み込んだ警察による捜査が行われていただろう。警察内部でも「この謎だらけの身元不明の老女は北朝鮮の工作員なのでは?」という話は出たらしい。だけど殺人事件でもないので、結局捜査らしい捜査も遺体の解剖も行われず、ただの孤独死の一つとして処理された。

結局沖宗千津子は、都会の雑踏の中に紛れて生活し、長くひっそりと自分の存在を消して生き、そのままくも膜下出血によって突然亡くなってしまった。年齢的には十分に長く生きたが、友人もなく親兄弟とも縁を絶って生きた人生は幸福とは言えないものだったろう。半ばあきらめ、口をつぐんだままで千津子は生涯を終えてしまった。見ず知らずの他人の人生とは言え、やり切れない思いがする。

本当は、このような「北朝鮮の工作員の内縁の妻」は西日本を中心に他にも多数存在したと思われる。ただ、千津子のケースのように死ぬまで「工作員の女/自らも工作員」として固く口を閉ざして親類縁者とも関係を断ち、周囲ともほぼ全く関係を築かずに生涯を終えた女は珍しかったかも知れない。途中でそんな生活に嫌気がさして、突然いなくなったりした人は多かったのではないか。そんな事も考えた。

この文章を書くに当たっては本を何度も読み返し、沖宗千津子の人生年表をエクセルで作成まで(!)した。そしてその年表に、北朝鮮が起こしたとされる「大韓航空機爆破事件」や複数の拉致誘拐事件を書き加えた。そうしてエクセルの年表を一覧すると、国家の大きな思惑が、一人の人間の人生を全く違うものにしてしまった事実が炙り出される。

時代や大きな国家の思惑の中では、一人の人間の人生などちっぽけなものだ。そんな小さな存在の一人の老女の最後にスポットを当て、1冊の総身のルポルタージュ本にまとめた共同通信社記者、武田惇志・伊藤亜衣の両氏には、心から敬意を表したいと思う。そして、1冊の本と文章の力を改めて思い知らされた。

改めて、この1冊を多くの方に読んでいただきたいと思う。




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櫻井みけ子久美
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