見出し画像

ナダールと19世紀パリ#04/産業革命と知識革命

グーテンベルクGutenberg(1398年-1468年)による"知識の開放"が大きく花開いたのは、印刷機の性能が安定化し大量印刷が可能になった1500年代後半からです。書物が、大学と金満家の専有物で無くなった。偏析しない知識は、遍く知恵を育てます。この時期からヒトは根底から変わり始めたのです。

碩学者も天才も、ヒト類のなかでは極めてマイノリティでした。しかし活字による知の開放以降、その数は急激に増加します。
ちなみに余談ですが・・人類に現れた天才/秀才のほぼ90%がいま現存しているというデータがあります。つまり彼らは1950年以降に生まれているのです。
閑話休題(あだばなしはさておきつ・・と読む)

現在の新聞と同じような日刊紙が登場したのはドイツ/ライプツィヒでした。Einkommende Zeitungen。1600年代半ばのことです。同紙はティモウス・リッツTimotheus Ritzschが創始者の一人として紹介されることが多い。こうした所謂newsを載せる新聞は、一世を風靡し急速に世界各地の都市で発行されるようになりました。そして1700年代になると、各地に色々な新聞が読み放題のコーヒー・ハウスが登場。豊かな商人たちは、此処に集まり様々な議論を重ねるようになったのです。フランス革命前夜、その土壌はじっくりと作られていったのです。

当時フランスで、最も印刷/出版業が栄えたのはリヨンでした。フランス有数の商業都市は、そのまま情報都市でもあり印刷業都市でもあったわけです。
フェリックス・ナダールの父系は、同地で代々印刷業を営む家でした。ナダールの父ヴィクトルも家業を継いでいます。その父が新天地を求めてパリへ越したのは1819年。15年にナポレオンが第七次対仏大同盟に完全敗北し、ヨーロッパへようやく安定した平和が訪れた時期でした。
リヨンから越してくると、父ヴィクトルはパリでも家業の印刷屋を始めた。これがそこそこの成功をおさめました。フレデリック・ナダールは翌年1820年に生まれています。
おかげでナダールは何不自由のない少年期を送りました。

しかし都市としてみると、パリは決して豊かな住みやすい街ではなかった。本来、領主の持ち物だった領民(農民/商人/工人)が革命によって解き放たれると、土地を持たない日雇いの農夫/人夫たちは、より豊かな生活を求めて都会へ移り住むようになったからです。街は・・とくにパリは・・乗数的に人口を増やした。結果とし、てパリは汚物と腐敗と赤貧と犯罪に塗れた街になってしまいました。
革命直前に、パリは市内に入る商人たちから徴税するために「徴税請負人の壁mur des Fermiers généraux」を建造し、パリとパリ市内を区分けしていました。しかしこれがナポレオン廃退の後、ほとんど機能しなくなっていました。街は、正に無秩序に膨れ上がっていたのです。

こうした19世紀前半の「希望とチャンスはある。しかしそれに倍して危険と不潔が溢れ返る街・パリ」について碩学ルイ・シュヴァリエが「労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ/Laboring Classes and Dangerous Classes in Paris During the First Half of the Nineteenth Century」の中で広範囲にわたる極めて緻密な研究を行っています。ユゴー、バルザック、シューの小説群とともに手にすべき資料です。

画像1


この記事が参加している募集

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました