勝鬨美樹

1951年生まれです。ついに70の声をきく年になってしまいました。このnoteではワインを巡る歴史話。僕が子供の頃の東京下町のこと。青春時代に歩いた米軍キャンプとNYCの話。そして日々徒然に書き散らしたものなどを並べています。

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星と風と海流の民#51/扶南王国

911直後のことである。カンボジア南部のケップ州へ度々通っていた。王立農業大学(RUA)Royal University of Agricultureの先生が始めた事業の手伝いをしていたからだ。品種改良で果皮を5%以下に抑えたココナツでバイオ・アルコールを作るビジネスだ。 その時、僕は(シンガポールはグリーンカードだけど)国籍が日本なので、カンボジア入りはマルチプルビザを利用していた。最初はアライバルビザだったが、ビジネス目的なので二回目からはこれにしたのだ。 RUAの先生

    • 星と風と海流の民#50~幕間2~/夏華族に追われた隼人たち#02

      もう少し後代、晋代を語るとき「衣冠南渡」という言葉に僕らは出会う。日本列島への渡来人について語るとき、この言葉に出会うことが多いが、ここでは大陸内だけの話として「衣冠南渡」を見つめたい。 衣冠とは漢民の貴族・知識人を指す。4世紀初頭。所謂五胡と呼ばれる北方の人々が目覚ましく伸びたとき、西晋/夏華族は彼らに押されて南へ逃げた。それが「衣冠南渡」だ。 その、きっかけとなったのは八王の乱(291–306)だった。皇位継承をめぐり、西晋の王族は血で血を争う戦いに陥った。国力は大いに削

      • 若き友への手紙#27/徳の無い人の事業は曲がります

        オノレは常にヒトに晒されています。 オノレなる者の価値や意味は、オノレのものであるとともに、ヒトからみたオノレのものでもあります。 おそらくこれは「徳」という言葉で言い表せるのかもしれない。 オノレの徳は、他者に冷徹なほど見定められます。 「徳」の無い人の「事業」は曲がります。誰も心を込めて、その人に寄ってこないからです。 社長をやりたがる人たちには、いつもこれが大きくのしかかってきます。社員たちは、だれも外から見えるオノレを教えてはくれない。「あ~あ、まただよ」で黙ってし

        • 若き友への手紙#26/艱難汝を玉にす?

          あなたは試練を受けているという。 本当ですか? 勘違いしていませんか?我欲を果たすことが試練 Probatioではありませんよ。それはオノレの欲を満たすための足掻きです。Probatioにならない。 その足掻きは、どこまでいってもMore&Moreなので、果たされることなく続きます。無間地獄ですね。そして、我欲を満たすための足掻きを続ければ、生涯越えられないままの壁にとして、なぜだどうしてだと言い続けて、この世を去ることになる。 ・・いま立ち向かっているのが我欲なのか、立命

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          星と風と海流の民#49~幕間2~/夏華人に追われた隼人たち

          第四間氷期後半、数千年かけて太平洋西岸へ広がっていったオーストロネシア語族だが、彼らを南へ海域へと追いやったのは、BC3000年ころより中原に台頭した夏華xiàhua族だという話をした。太平洋に大きく広がった「星と風と海流の民」のことを考えるとき、僕らはやはりこの夏華族の台頭から話を始めないといけないのかもしれない。 この「華夏xiàhua」という言葉だが、初出は『春秋左氏伝』襄公26年(BC546)にある。 ここに「貴華夏,析公楚為之也」とある。唐の孔穎達はこれに「華夏は

          星と風と海流の民#49~幕間2~/夏華人に追われた隼人たち

          星と風と海流の民#48~幕間~/オデッサ考古学博物館03

          オデッサの博物館を彷徨しながら考えたのは、ポントス・カスピ海草原に生きたヤムナ/アンドロノヴォ/シンタシュタの人々のことだ。彼らは、小氷河期が終わったために、余儀なく新たな牧草地や資源を求めて、さらに南へ移動するしかなかった。そしてインドやイランへ拡散していったのではないか・・それを考えていた。 見つめていたのは、黒海北岸へのギリシャ人が進出したころの豊富な遺品だった。しかし僕が幻視したのは、南東へ広がっていったヤムナ/アンドロノヴォ/シンタシュタ人のことだった。彼らこそがア

          星と風と海流の民#48~幕間~/オデッサ考古学博物館03

          若き友への手紙#25/敬読書に出会いなさい

          産まれて今に至るまでの人生で、人は二つについて学びます。ひとつは対自であり、対他です。 この二つは分かち難く寄り添っています。オノレだけを見ていると他人が見えなくなります。 他人だけを見ているとオノレが流されてしまいます。したがって、人は等価に"対自"と"対他"を学ぶのです。 ユダヤ人は典拠として「タムルード」を学び「トーラ」を学びます。 東洋人はどうでしょうか?おそらく「四書五経」ですね。徳ある日本人は陽明学からこれを学びます。 欧米人は「対話篇/プラトン」や「ニコマコス

          若き友への手紙#25/敬読書に出会いなさい

          星と風と海流の民#47~幕間~/オデッサ考古学博物館02

          18世紀、オデッサは既に港湾都市として栄えていた。オデッサは古い。当初はハジベイKhadjibeyと呼ばれていた。その歴史は、もう少し東にあるギリシャ人が作った「オルビアOlbia」から始まる。紀元前六世紀の頃からだ。ギリシャ人は、オルビアを中心とした黒海北岸に交易地区を置いて、同地で生産された穀物(小麦)塩漬けされた魚類、そしてドニエプル川とブグ川を使って北方から運ばれてくる金属製品/主に武器と装飾品などを、ワイン/陶器類と交換していた。 彼らの最も重要な交易物は奴隷だった

          星と風と海流の民#47~幕間~/オデッサ考古学博物館02

          星と風と海流の民#46~幕間~/オデッサ考古学博物館01

          https://www.youtube.com/watch?v=fojavoz7gWo 前々職の頃、会社の指示でオデッサの近くにある製パン工場を訪ねた。 ソ連から自立したばかりの頃だ。 その工場は、ずいぶん昔に弊社が生産工程の一部を請け負ったものだった。同国が非共産化したことに相まって、その工場の再整備組み直しが企画され、僕が派遣されたのだ。しかし訪ねてみると、工場内は共産圏特有の体質がそのまま残っていて、猛烈にやり難かった。仕事一つ一つに、わざわざチェックと確認が入る。なぜ

          星と風と海流の民#46~幕間~/オデッサ考古学博物館01

          【星と風と海流の民#45/ユリグ川のチョモロ遺跡】

          途中から国道4号へと名前を換える海岸道路をRamon氏のクルマは南へ走った。目的のAdventure River Cruise(8QQ6+VHR, 4, Talo'fo'fo:phone+16716461710)までは30kmほど。30分くらいの道だ。 クルマはメリッソ村Malessoを抜けてイナラハン村Inalåhanを通過した。途中から道はEast Chalan Canton Tasiとなる。マロジョジ村Malojlojを過ぎてしばらく走ると、タロフォフォ村Talo'fo

          【星と風と海流の民#45/ユリグ川のチョモロ遺跡】

          星と風と海流の民#44/マゼランの高慢と挫折

          遠い昔のフーナFo'naとポンタンPontanの薫りを追いながら、しばらくフーナ・ロックFuha Rockの周辺を散策した。そして、お供物のお米を捧げて黙とうの後、もう一度山を登り始めた。しばらく進むとさすがに息が荒くなった。 「行きはよいよい・・だな。ずっと登りはきつい」僕が言うと、ガイドしてくれたRamon氏の息子が笑った。 漸く国道まで辿り着くと、Ramon氏がすぐさまエビアンの小さい瓶を僕と家内に渡した。 「お疲れさまでした。いかがでしたか?」 「ありがとうございます

          星と風と海流の民#44/マゼランの高慢と挫折

          星と風と海流の民#43/フーナFo'naとポンタンPontan

          https://www.youtube.com/watch?v=_wQZeu7U8Is 朝食の時、コンシェルジェに頼んで一握りほど米を小袋に分けてもらった。不審がる嫁さんにそれを持たせた。 「お供物だよ」とだけ言った。「リュックに入れといてな」 Ramonさんのクルマに乘ったのは10時前ころ。今朝訪ねるウマタック湾Bay of Umatac湾は、島の南端近くにある町だ。クルマで小一時間くらい先だろうか。今日はRamon氏の息子さんが助手席にいた。日曜日のお休みを僕らのために

          星と風と海流の民#43/フーナFo'naとポンタンPontan

          星と風と海流の民#42/デデドの朝市

          デデドDededoにあるフリーマーケットDededo Flea Market(144 West Santa Monica Avenue, Dededo, 96929。2016年からこちらへ移転)に到着したのは朝10時を過ぎたところだった。 Ramon氏は路上駐車した。 「そろそろ終わりの時間なので混雑は終わっております。しかし路上駐車は物騒なので、私はクルマで待機しております。お二人でマーケットをお楽しみください。ぜひ食事とかもお楽しみください。私は此処で待機しております」R

          星と風と海流の民#42/デデドの朝市

          星と風と海流の民#41/グアムのチョモロ#03

          "Kroeber's girls,"は、太平洋に広がった女性人類学者たちだった。そのフィールドワークの緻密さは、まさにクローバー博士の血そのままだった。 ローラ・トンプソンがホノルル・ビショップ博物館で民族学助手に就いたのは1929年。彼女は先ずマリアナ諸島のハンス・G・ホルンボステル・コレクションを担当した。 マリアナ諸島は、ハワイに渡るポリルシア人の始祖でもある。ビショップ博物館はハワイ人の始祖であるマリアナ諸島の人々に強く関心を向けていた。その意味でもハンス・G・ホルン

          星と風と海流の民#41/グアムのチョモロ#03

          星と風と海流の民#40/グアムのチョモロ#02

          https://www.youtube.com/watch?v=s7cYdqkf8oE ラッテ・ヘリテージ・パークLatte Heritage Park(FQC2+WPQ, W O'Brien Dr, Hagåtña, 96910)は、スペイン広場と云うかなり広大な公園の傍らにある。割と緑多くゆったりとした斜面の中にラッテ・ストーンが並んでいた。嫁さんは初めてなので、相当驚いたようだ。 「ここに大きな神殿か王様の屋敷があったの?」 「いや、ちがう。公園が出来た時に、グアム中

          星と風と海流の民#40/グアムのチョモロ#02

          星と風と海流の民#39/グアムのチョモロ

          20年ほど前、前職時代のこと。グアムで経営カンファレンスを開いたことが有る。 僕は嫁さんを伴って、これに参加した。ホテルはニッコー・グアムHotel Nikko Guam(245 Gun Beach Road, Tumon, 96913)を借りた。ここの2階にTasi Ballroomという大きな部屋が有る。此処を利用したのだ。カンファレンスの後、僕らはそのまま一週間ほどホテルへ残った。 チョモロとチョモロの血「星と風と海流の民」の道を少しの間、歩きたかったからだ。 ホテル

          星と風と海流の民#39/グアムのチョモロ