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リブリヌ05/サンテミリオン村歩き#29

ホテルで朝食を終えた後、町へ出た。ジャン・ジャック・ルソー通りからエティエンヌ・サヴァティニ通りRue Etienne Sabatiéを通って聖ヨハネ教会Église Saint-Jean-Baptiste de Libourneを訪ねた。
「ここはリブリヌでも最古の教会でね、5世紀ころにはもう有ったと言われてる。史料としてSaint-Jehan de Fozeraという名前が出てくるのは1134年だ。サンテミリオンに有った教会の分院だったようだ。まだ英国がリブリヌを交易港として構築なかった前の話だったから、リブリヌはまだまだ鄙びた村だったに違いない」
僕らは教会入口から入った。中央身廊に側廊が並んでいる。美しいステンドグラスに嫁さんは驚嘆したようだ。
「ここのハイライトは、イエスがゴルゴダで被った茨の冠だ。 Sainte-Épineという」
「?え、他の教会でも見た事あるわよね。分解されて、色々な教会に納められてるの?」
「ここの聖冠は1600年代になって出てきたものだ。Sainte-Épineそのものは数百単位で存在してる。十字軍が持ち帰ってお土産ナンバーワンの一つだ」

「・・ふうん、お土産ねぇ」
「十字軍は、キリストに関連したものを色々とエルサレムから持ち帰ってるからな。彼を刺した槍から聖冠から、処刑後に彼を包んだ布までもな。ま、モスレムやヴェネツィアの商人たちが、ヤマから出てきた兵士たちに有ることないこと滔々としゃべって売りつけたんだろうな。兵士たちは、それを喜んで地元へ持ち帰り教会へ収めたんだよ」
「あなたが時々するイエスの子供の時の頭蓋骨ね」
「ん。モスレムの商人が、フランスのヤマから出てきた兵士に、イエスの頭蓋骨を売ろうとした話。兵士が『いくら何でも小さいンじゃないかい?』と聞いたら『コレは子供の時の頭蓋骨です』と言ったという話」
「ウソでしょ?」
「ははは(笑)そんな話はいっぱい有ったという話さ」
「不敬なジョークね」
「ははは。申し訳ない。ところでこの教会だが、増築されて立派になったのはアンジュー帝国時代だった。そのときに聖ヨハネの教会とされた。ここに祭らわれているのはバプテスマのヨハネだ。イエスに洗礼した男だ。キリスト以前にユダヤ各地で現れた無数の預言者の中の一人だった」
「キリストの前に、そんなに沢山の預言者がいたの?」
「ああ。預言者は時代の要請から産まれて来るもんだからな。無数にいた。たまたまイエスは、ローマで新興宗教を始めたパウロがハイライトした預言者だったからな、有名になったんだよ」
「でも・・実在は確認されてない・・という話になるんでしょ?」
「ん。彼が存在してたと言う話は、彼の信者からしかない。傍証する客観的資料が皆無なんだよ。彼が生誕して2000年間、彼の信者たちが追い掛け回したが、いまだに傍証する資料はなにもない。そのうち、キリスト教は巨大組織として育っちまった・・という話だ」
僕らは教会を出た。そして町なかへジュール・シモン通りを歩いた。

「リブリヌはプロテスタントに寛容な町だった。商いの町だからな。心情的にも新教的だったのかもしれない。ユグノーたちは町の広場フォンテーヌでしきりに布教活動を行っていたという。ナヴァール王だったアンリ・ダルブレにジャンヌという娘がいてね、彼女が熱心なプロテスタントだった。それもあってブルターニュは急速にプロテスタント化したんだよ。しかしそれが結局は熾烈な宗教戦争を招いてしまった。プロテスタントたちにとってカトリックは旧弊で民を簒奪する不逞の輩に見えたんだよ」
「同じキリスト教徒なのに?」
「ん。プロテスタントたちはカトリックの神の独占に反旗を翻したんだ。それが1500年代だ。最初カトリックは強圧的にプロテスタントたちの礼拝を弾圧した。異教であるとしてね。不満に思った宗徒たちは1560年、リブリヌのサン・トマ教会を襲った。そして焼き払った。これがリブリヌでの宗教戦争の始まりだったと云われてる。1563年にはレピネット礼拝堂とコルドリエ修道院が略奪され焼き払われた。無為な拡大を恐れたカトリック教会は1598年、ナントの勅令によってプロテスタントの礼拝を容認した。そして城壁の外のフラマン通りAllées Flamandesに彼らの墓所を作ることを認めた。しかし彼らがリブルヌで公職に就くことまでは許さなかったんだよ。だから宗教戦争はくすぶったままリブリヌで長い間続いたんだ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました