堀留日本橋まぼろし散歩#04
泉鏡花が『日本橋』を書いたのは41歳のときだ。大正3年である。装幀は小村雪岱だった。
雪岱は川越で生まれたが日本橋で育った人だ。残念ながら今の日本橋から小村雪岱を偲ぶ縁(よすが)は何もない。
なぜ唐突に小村雪岱の名前が浮かんだかというと・・資生堂パーラーである。
あスこは、ママと娘たちのお気に入りの店で何かと足繫く通っているようだが、たまたま僕も随伴を仰せつかったからだ。不思議なもんだ。ウチのお袋もあスこがお気に入りだった。僕的には不二家のほうが良かったが、ときおり目いっぱい御粧(おめか)してあスこのクリームソーダを頂きに行ったもンだ。
お袋は神田の製本屋の娘だったから、ご多分に漏れず文学少女だった。だから此処へ来るとよく太宰治の話をしてたな・・資生堂パーラーは彼の小説によく名前が挙がってくる。
そんな話をしているときに、小村雪岱の描いた資生堂のロゴのことを思い出した。
「資生堂のロゴSHISEIDOは、一時期資生堂意匠部で働いていた小村雪岱という人が描いたものだ。彼の感性を引き継いで資生堂は独自の"資生堂書体"を編み出して今でもそれを使っている」
「少し長細くて清楚な感じのする書体ね」嫁さんが言った。
「ん。多分にアールヌーボー的だが、根底にある素養は日本の文人画だな」
「化粧箱なんかについている花椿のマークもそうなの?」
「あれは初代社長・福原信三が描いたものを、小村雪岱の後を継いだ山名文夫さんがリライトしたもンだ」
「でも感性に同じものを感じるわ」
「たしかに・・福原信三が小村雪岱を意匠部に迎えたのは、おそらく雪岱の感性が自分にきわめて近しかったからだろうな」
「なるほどね」
「でも小村雪岱が資生堂に在籍したのは・・5年くらいだ。大正の終わりころだ。新版画の作家としてある程度知れ渡っていたから独立を志したのかもしれない」
「新版画・・って、ウチにあるアレ?」
「うん。ソレ。大正は、夢二を含んで新版画が百花繚乱した時代だ。その一翼が小村雪岱だ。ただ当時は、舞台美術家としてのほうが有名だった。菊池寛の『忠直卿行状記』の舞台装置を手掛けてね、一躍有名になった。『一本刀土俵入』『大菩薩峠』とかね、いまだに彼の仕事は語り継がれてるよ。それと映画な」
「映画?」
「溝口健二監督の作品で美術を担当したりしてる。溝口健二『狂恋の女師匠』とかな。島津保次郎監督の『春琴抄/お琴と佐助』もそうだ。山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』もだ。ウチ帰ったら観てみるか?」
「嫌。絶対に観ない」
「あ・そ」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました