ナダールと19世紀パリ#06/激動する欧州
ナダールの育った1820~1837年は、欧州全体が次代に向けて大きく激動した時代だった。
シャルル10世がアルジェリアで惨敗、七月革命が起き七月王政が成立したのは1830年のこと。これをきっかけとしてフランスは/パリは支配者が大きく入れ替わった。同じく欧州各国で支配者/ボードメンバーの蠕動が始まった。ナポレオンが去った後の北イタリアでは統一国家を目指す機運が立ち始めていた。1831年にマッツィーニが「青年イタリア」を結成している。まさに夜明け前の蠕動である。
英国で興きた所謂産業革命が生産方法を大きく革新し、地主でも領主でも貴族でもない、新しい富裕階級そして労働形態/労働者階級の台頭が、時代を揺るがしたのである。
パリは揺れ動いた。人口は爆発的に増え、人々の貧富の差は更に拡大した。ナダールの父ヴィクトルの会社は、その激動に耐えられなかった。
ナダールはこう書く。
「わが父のようなお人好しは,私が司教になるために生まれたのではないのと同じくらい,生来商売には向かなかったのだ。あまりにもお人好しで,人を信用しすぎる彼は,世の中に泥棒というものがいることすら考えてもみなかった。」
その父が心労で倒れたのは1837年。パリで印刷業に行き詰った父は家族を連れてリヨンに戻っていた。ナダールは17才だった。一家の長として彼は家族を支えなければならなかった。自伝を読むと、そのことで彼が如何に発奮したかが窺い知れる。ナダールはめげない男だ。
翌年1838年にリヨンを出てパリにもどった彼はJournal des damesに組版工として入社している。しかしすぐさまその才能が認められて、ナダールは組版工として働きながら記事稿を書き始めている。とくに彼の劇評は評判を呼んで、同社が倒産した後はすぐざまla Revue et Gazette des theatresに転職。以後、劇評だけではなく様々な記事を書き、レポーターとしての地位を確保している。
この時期にナダールは、ボードレールやネルヴァル,アルセーヌ・ウーセ,ゴーチエ,バルザックらの知己を得ている。20代のナダールは勢いと先進性をもつ麒麟児だったのだ。
その多才ぶりは劇評・レポートに留まらず小説執筆から仕舞いには風刺画を描くところまでに広がっている。
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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました