ナダールと19世紀パリ#03/肥大化するパリ
中世以降、富める者の列に多くの商人が加わった。
長い間、富と権力は、王と貴族そして教会のものだった。
それが、商いを阻害する物理的な要因が時代を経て暫時改良改造されていくと、富は商人らの手中に集約するようになった。王と貴族そして教会は、自ら富を生みだすのではなくこれを簒奪する側へ舵を変えた。
これが大航海以降の大きな時代の流れだった。
商人たちは、色々な抜道を模索した。
ひとつは、教会から「神」を取り返すこと。教会は「神」を専売してきた。神と神の子と教会はセット販売され、民は教会へ行かなければ神に会えなかった。聖書は教会の専有物だった。ラテン語で写生されており、読めるのは神父と学者ばかりだった。商人たちは、これを変えた。「神」は天上にあるだけではなく遍く人の内にあるとしたのだ。こうした考え方は、既存教会へ抗議という意味で「抗議する者/プロテスタント」と呼ばれた。
商人たちは、グーテンベルグが発明した印刷機を使って、聖書を教会から解放した。ドイツ語版/フランス語版/英語版の聖書が大量に市井へ流れた。教会組織は不動のものではなくなった。
そしてひとつは、金の力で「貴族」という看板を買うこと。「法被貴族」と呼ばれる疑似貴位が販売された。この貴族という看板は商人たちに無数の権益をもたらした。なので商人たちは挙ってこれを買った。しかしこうした「貴族」というレッテルの販売は、貴族というステータスそのものを貶めていった。次第に貴族という看板は買うほどの価値あるものではなくなっていったのだ。
こうしてパリ革命を迎える。
パリ革命は「労働者が起こした革命」だと云われることが多い。当時はまだ、我々が知っている「労働者階級」は存在しなかった。産業革命前だからだ。パリ革命の担い手は、土地の小金持ちであり、商人であり、貴族/教会から逸れた知識人だ。そして彼らの背景には「ジロンド派」のような金持ち集団があったのは云うまでもない・・
しかし所詮、利害がバラバラな共同体にはなれない烏合の衆である。ナポレオンという王が台頭することでしか収斂する道はなかった。
人々はナポレオンに心酔し、暫くすると揶揄するようになり、最後は王の座から引き摺り下ろした。
19世紀の前半、ナポレオンの退場とともにパリの人口は爆発した。自由な移動を制限する楔から解き放たれた民(農民)が、生活の糧を求めて、大都市に向かって大移動をしたからだ。街は変貌した。空は黄色く煤け、街路に汚物が溢れた。たしかに仕事はあったが、その仕事の数以上の人々が大量に傾れ込んできたのである。
ナダールの父ヴィクトールが、リヨンから越してきたパリは、そんな「病めるパリ」だった。