「居場所」ではなく「生き方」――『西の魔女が死んだ』とAnywhereの精神
霧の立ちこめる朝、ぬるく湿った空気が肌にまとわりつく。少しずつ光が差し込んできた庭先では、レモンバームの葉が朝露に濡れている。こんな朝には、温かいハーブティーが似合う。
『西の魔女が死んだ』を読み返していると、ふと、そんな情景が浮かんでくる。
物語は、中学生のまいが学校に行けなくなるところから始まる。環境が変わったわけでも、特別な事件があったわけでもない。ただ、ある日を境に、教室の空気が重くなり、身体が動かなくなる。どこかで無理をしていた心が、ある瞬間にぷつりと糸を切るように、まいは歩みを止めてしまう。
そんなまいを受け入れたのは、「西の魔女」と呼ばれるおばあちゃんだった。イギリス人の血を引く彼女は、山の中でひっそりと暮らし、野菜を育て、紅茶を淹れ、まいに魔女修行を教える。
魔女修行とはいっても、箒に乗るわけではない。「自分で決めること」「自分の力で生きること」。それがおばあちゃんの教えだった。そして、まいにこう語る。
サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。
この言葉が、妙に心に残る。
Somewhereに生きるか、Anywhereで生きるか
イギリスの政治評論家、デイヴィッド・グッドハートが提案した概念に「Somewheres」と「Anywheres」という概念がある。文字を見れば想像通りだと思うが、前者は地域や伝統、国家アイデンティティへの強い帰属意識を有するの人々であり、後者はどこでも適応できるグローバル思考の人々のことを指す。近年のBrexitやトランプ大統領の当選の背景には、グローバル化の恩恵を受けている「Anywheres」と、置き去りにされたと感じる「Somewheres」の分断があるというのだ。
だが、この分析フレームワークは使うにせよ、私はこうした見方が極めて一方的なものであることを強く主張したい。
私たちはつい、Somewhereで生きようとしてしまう。正しい場所、認められる場所、安心できる場所。社会のレールの上で、誰かに示された「最適解」を探そうとする。だが、今まさに自分がいる場所が自分に合った場所ではないとしたらどうか。「Somewheres」的な価値観にも暴力性があることは見落としてはなるまい。
『西の魔女が死んだ』で言えば、シロクマにとっての最適解は北極であって、ハワイではない。どれだけ「ハワイは暖かくて最高だよ」と言われても、シロクマにとっては生きづらいだけだ。
Anywhereで生きるというのは、「どこでもいい」わけではない。「自分にとっての北極」を知ることだ。自分に合う環境、自分が自然でいられる場所を見つけること。そのために、自分の感覚に正直になり、時には「みんなと違う道」を選ぶこと。
退屈という罠
國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』に、こんな一節がある。
退屈とは、何かをしたいという欲望があるのに、それをする意味を見いだせない状態である。
Somewhereに生きていると、退屈を感じることがある。そこに「意味」を見出せないからだ。決められたルールの中で生きるのは、ある意味で楽だけれど、「なぜ?」を考え始めると、途端に息苦しくなる。
まいもまた、学校で退屈を感じていたのかもしれない。「どうして勉強しなきゃいけないんだろう」「どうして友達と同じようにしなきゃいけないんだろう」。そんな問いに対する答えを見つけられず、心が動けなくなったのだとしたら、それはすごくよくわかる。
Anywhereで生きるために
『西の魔女が死んだ』は、「どこで、どう生きるか」を問い直す物語だ。シロクマのように、自分に合った場所を選んで生きていいのだと、この物語は教えてくれる。Somewhereにいることが苦しくなったら、自分のための「北極」を探せばいい。「ここにいなければならない」「こうしなければならない」という思い込みを手放した先に、本当に心地よく生きられる場所があるかもしれない。まいにとって、それはおばあちゃんの家だった。
さて、この物語は一見すると「居場所を見つける話」に見えるかもしれない。だが、読み返してみるとそうではないことに気づく。魔女修行の中でまいが学んだことは、自分の気持ちに素直になり、自分で決めることや自分の力で生きることだ。それは「どこででも生きていける力」にもつながる。そして、どこででも生きていける力を身につけたからこそ、「どこかに属すること」への強迫観念から逃れることができた。
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