Sense Of Wonder
『ほぼ日手帳』に書かれた、糸井重里の以下の言葉が話題となっている。
「いいこと」をいつも探している人は、それを続けるうちに「いいこと」を見つける力が発達してくる。
「きれいなもの」を見てる人は、「きれいなもの」を見つけやすくなるし、「いやなこと」が気になる人は、どこからでも「いやなこと」を見つけ出す能力がつく。
世の中の混迷を前に、「いいことを見つける力」などという耳障りの良いフレーズが、現実逃避や社会問題への無関心を促すのではないか、というのだ。しかし、ここで立ち止まって考えたい。「いいことを見つける力」は本当にそのような薄っぺらい概念なのだろうか。どうやら、「いいことを見つける力」は逃避か問い直す必要がありそうだ。
まず思い出したのは、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』の一節だ。彼は強制収容所という極限状態の経験から、荒廃した環境にあってなお、「未来への希望を見出す力」 を持つ人間だけが精神的な尊厳を保ち続けられたと述べる。フランクルが語った「態度の自由」は、決して楽観主義への逃避ではない。変えることができない運命に対して、どう対峙するかを選び取る内面的なレジスタンスであった。
次に思い出したのは、『センス・オブ・ワンダー』や『沈黙の春』 といった著書で広く知られるレイチェル・カーソンだ。
せっかくなので、少しだけ『センス・オブ・ワンダー』について論じてみたい。「センス・オブ・ワンダー」とは、カーソン自身の言葉によると「神秘や不思議さに目を見はる感性」のことをいう。この自然の美しさと驚異を感じ取る力が、現代の機械的で無感覚な世界に対する抗議であり、また人間としての尊厳を守るための重要な感覚であることを示唆している。この感性を彼女が「目を見はる」 という表現で語るとき、それは私たちが日常の喧噪に紛れて見過ごしている小さな奇跡に対して、積極的に心を開くことを意味している。
実は、カーソンは1964年に亡くなっており、この『センス・オブ・ワンダー』は友人たちが惜しんで掲載原稿そのままに翌1965年に出版したものである。カーソンは1958年から1962年にかけて、4年の歳月をかけて殺虫剤DDTによる環境破壊のデータを収集し分析し、『沈黙の春』を執筆したが、この間に乳がんを宣告されている。彼女は人生最後の時間を、メイン州の豊かな自然に囲まれた別荘で、時に自然の中を姪の息子にあたる幼い少年ロジャーと散歩したり海辺でカニを探したりしながら過ごした。『センス・オブ・ワンダー』の原稿が書かれたのもこの時期である。ロジャーに、そして世界中の子どもたちにセンス・オブ・ワンダーを伝えるために、彼女は人生最後の時間を注ぎ込んだのだ。
感受性についての彼女の考え方を象徴する一節を紹介したい。
私は、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でないと固く信じています。子どもたちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感受性は、この種子を育む肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
これは、冒頭の「いいことを見つける力」 と通じる話なのではないだろうか。「センス・オブ・ワンダー」は、冒頭の文章に照らしていえば「いいこと」を見つける力や「きれいなもの」を見つけようとする力として理解しうる。カーソンにとって、「いいことを見つける力」は、社会問題に対して無関心を育むのではなく、むしろ私たちがその世界に積極的に関わるための感覚を育てるものであるのだ。
余談だが、私がInstagramをしているのは、世の中の美しいものを美しいといえる感性を忘れたくないからこそである。Instagramに掲載する美しい写真を撮るためには、積極的に社会に交わり、なおかつ美しいものを見落とさないように心がけることが欠かせない。
「いいことを見つける力」は、単なる現実逃避の道具ではない。それは、「行動するための精神の備え」 であり、心のエネルギー源だ。フランクル の言う「希望」もカーソンの「センス・オブ・ワンダー」も、現実への闘争の一形態だった。批判者たちが忘れているのは、人間の感性を鍛えるという意味において、この力がいかに重要な役割を果たすかだろう。
むしろ、問題は「いいことを見つける力」をどう使うかにあるのではないだろうか。「いいこと」だけを見ることと 「いいことを見つける力」を持つことは決して同じではない。前者は現実逃避だが、後者は困難と対峙するための準備 だ。「いいこと」と困難な現実とは表裏一体である以上、前者への感性を失ってしまえば、悪しきものへの怒りの意味すら薄れてしまう。というのは、問題とは常に「As-Is(現状)」と「To-Be(理想)」との乖離であり、問題に対して声を上げる目的は単なるガス抜きではなく乖離を埋めることにあるからだ。良いものに対する審美眼を磨かずして、どうやって良い理想を描くというのだろうか。
その意味で、「いいことを見つける力」は、無関心を促すものではなく、美しいものの喪失を許さない力を支える。そして、今を生きる私たちが本当に問うべきは、「いいことを見つける力」を逃避の盾にするのか、それとも行動の剣として振るうのか、ということである。
それを決めるのは、他ならぬ我々の「態度の自由」なのだ。