「相手の立場になって考えなさい」と言われてきたけれど
直接だれかと話すことは結構好き。
でも「あんなこと言っちゃって大丈夫だったかな」とか、「あの発言、嫌なヤツだと思われたかな」とか、話してから後悔することがすごく多い。小学生くらいからずっと。「もう最低限のことしか喋らないでおこう」と何度心に誓ったか分からない。
逆に、人から言われたこともすごく気にしてしまう。今は、言われた言葉を「受け取らない」という選択肢が持てるようになってきて、だいぶマシになってきたけれど、中学、高校あたりは気になる一言を言われただけで、かなり引きずっていた。
こんな性格になったのは、元々の性質というのもあると思うし、小さい頃から「相手の立場になって考えなさい」と繰り返し親に言われてきたことが大きいと思う。そのおかげで、発言する前に一度立ち止まって考える癖をつけることができたけど、言いたいことを瞬発的に口にすることが苦手になった。
例えば、何かに対しておかしいと思ったとき、「え?」とか「おかしくない?」とすぐに言うことができない。心の中で「うーん、なんかおかしい気がするけど、とりあえず聞こう。」と黙って保留にし、何分間も、何時間も、ときには何日間もかけて、「うーん、やっぱりおかしい気がする……」と頭の中で思う。「どんな言葉を使ったらこの思いが伝わるだろうか?」「怒りの感情をぶつけたいわけではない。具体的な解決策を提案しよう」などと考えを巡らせても、時すでに遅し。そんなことを繰り返し、「やっぱりおかしいと思ったことはその場で言わなくちゃ!」と思うのだが、そのスキルが身についていないのか、普段はおとなしくて黙っているくせに急に強めの意見を言うヤツになってしまう。
「意外と毒舌だよね」「意外と言うときは言うよね」と何度言われたことか。はぁ結局そう思われてしまうなら言わないでおこう。そうやって口数を減らしていく。
そうそう、昔の話だが、当時の恋人から、私が怒ってもおかしくないような とある出来事を告げられたとき、一瞬パニックになりながらも「うーん、怒っても建設的じゃないし今後のことを考えようか」と無理に冷静になって言ったことも思い出される。
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書くことで素直になれる、とnoteを始めて感じている。「どんな言葉を使ったらこの思いが伝わるだろうか?」という思いは変わらずあるのだが、そこに楽しさ、豊かさがある。むしろ自由に受け取ってほしいと思い、あえて広い表現をするときもある。これは直接だれかと話すときの自分はなかなかできない。違う意図で受け取られたら怖いからだ。文章でも怖さがないわけではないけれど、自分の内側から放出する前にじっくり考えられるという良さがある。また、話す場合は、声のトーンや表情などたくさんの要素が組み合わされて表現が生み出される。それはもちろん良さなのだが、私の性質上、その情報量の多さを抱えきれなくなるときがある。文章のシンプルさに私は救われ、自分が自分に帰ってくる感覚を得ている。
以前、相談の仕事をしていたときに、上司に「ペーシングが上手だよね」と言ってもらえたことがある。話す速度やペース、声のトーン、雰囲気などを相談者に合わせて信頼関係を構築していく技法のことをいうが、その言葉を素直に受け取るなら、意識せずに自然としていたのだと思う。きっとこれは生育環境の中で私が身につけた生存戦略で、だから人と話すとエネルギーを使う感じがするのかと腑に落ちた。これをなくすのは難しいと思うので何かに活かせたらいいなと思いつつ、自分が素直でいられる時間も大切にしたいと思っている。
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「相手の立場になって考える」というのは実際には難しいというのが今の私の思いだ。先日バイト先で結構なクレームを受け、「逆の立場になって考えろ」と言われたので逆の立場になって考えてみたのだが、正直なにも共感できなかった。自分が逆の立場ならこんなクレームを入れないのである。人によって受け取り方は違う。可能性として「相手はどう思うかな」「こう言ったらこう捉えられる可能性があるかもな」と想像する必要はあると思うし、それがなさすぎる社会にムカつくこともある。でも相手の立場になって考えたところで、それは自分の考えでしかない。「そうに違いない」とまで思う必要はない。意外と相手はなんとも思わないなんてことも多かったりするので、私は、少なくとも文章においては、なるべく素直な思いを世に放っていきたい。
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