見出し画像

20_再生の部屋_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解説


こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。

英雄の旅【イニシエーション】4 父親との一体化 

Q.20-1 ホールデンが部屋を訪ね歩くのはなぜか?

 キャンベルは、父親との一体化を説明するために、ナバホ族に伝わる、双子が父親を捜す神話を紹介している。太陽神である父の家で双子は「四つの空の衣」に包まれて隠され、そこから生まれなおしたのちに、太陽神の息子であることを認められる(G)。このストーリーは、そのままスペンサー先生の部屋、ナバホの毛布、バスローブに重なる。
 さらに、キャンベルは、父=太陽神の家として登場する巨大な四角い建物が、太陽神である父親を象徴していると述べている(G)。神話における建物や部屋は、そこに住む者の精神の象徴であり、そこに住む者を癒し、再生へ導くクジラの腹の中。繰り返しになるが、子宮(wombウーム)部屋(roomルーム)墓所(tombトゥーム)、神話ではこの三つはしばしば同じ役割をもつ。ホールデンはそんな場所を訪ね歩いていく。
 ピノッキオがクジラの腹でゼペットと再会し、人間に生まれ変わったように、クジラの腹で象徴的父と会い、一体化することで、英雄は再生へ導かれる。ホールデンが父親捜しをすることは、自分のためのクジラの腹を求めて彷徨うことと同義だ。

 スペンサー先生が「切なくしょぼくれたバスローブ」をまとっていて、「それに包まれて生まれてきたんじゃないかと思えるくらい、古っぽい代物だった」(15)と書かれている場面では、スペンサー先生がおくるみにくるまれた赤ん坊に見立てられている。神話の円環(下記[15_落ちる落ちる落ちる]の図参照)を人間の一生と重ねれば、老人と赤ん坊は円の上部で近接した存在。スペンサー先生は老人=赤ん坊の姿で、ホールデンに、英雄の旅における象徴的な死と再生を教えているわけだ。

 しかし、スペンサー先生の部屋は、「ヴィックス・ノーズ・ドロップスの流感っぽいにおいが部屋中にむんむん漂って」いて、ホールデンはそれを不快に感じる。そこはスペンサー先生のクジラの腹であって、ホールデンのための再生の空間ではない。
 
 下記[16_女神フィービー]でみた通り、ホールデンはフィービーが眠るDBの部屋を経由する。そこは、原両親が一体となったホールデンにとってのひとつのクジラの腹。ここの暗闇で、フィービーとぶつかることによって、ホールデンは一つの聖婚を達成し、フィービーによってキャッチされる。女神というひとつの〈聖杯〉をここで得ている。しかし、そこはDBの気配が残るDBの部屋ではあるものの、DBその人はいない。父親との一体化は果たされず、ホールデンは新たなクジラの腹を探して街へ出ていく。

 アントリーニ先生は、ホールデンが家にやってきたとき、スペンサー先生と同じようにバスローブ姿で(307)「君の腕には生まれたばかりの赤ん坊が抱きかかえられているんじゃないかと、実は予想していたんだ」(308)と冗談をいう。この言葉には、スペンサー先生宅で表れていた死と再生のテーマが、アントリーニ先生宅にも引き継がれていることを示している。
 ホールデンは、今度こそ自分が再生するためのクジラの腹に辿り着けるかもしれないという期待を持って、アントリーニ先生宅を訪れる。ホールデンは、安心していったんは眠りについたものの、夜明け近くになってアントリーニ先生の不可解な行動によって起こされ、そこを飛び出す。アントリーニ先生宅もまた、ホールデンのためのクジラの腹ではないことが明らかになる。

Q.20-2〈語り手ホールデン〉が病室にいるのはなぜか?

 アントリーニ先生宅を出た後、ひとつのクジラの腹である博物館のミイラの展示室を経由して、回転木馬のシーンでクリスマス前後の回想は終わる。
 ホールデンが最終的に行きつくのは、枠構造の外側、〈語り手ホールデン〉が現在いる病室のような場所。精神病院とも、結核療養のためのサナトリウムともいわれており、断定はできないが、個人的には下記[02_見えない傷]でみたとおり、呼吸困難はイエスの受難や未熟な若者の特徴として他の作品にもみられるし、『キャッチャー』は精神的な豊饒を願う物語であることから、やはりホールデンは精神的な病で入院している可能性が高いと読みたい。ここには、戦後サリンジャーが滞在していた病院のイメージも重なっているのではないだろうか。

 この場所で、ホールデンはおそらく精神分析を中心とした治療を受けている。この物語も、治療の中で語られたものかもしれない。精神病院の病室、あるいは精神分析のカウチが、ホールデンにとっての最終的なクジラの腹の中である。(クジラの腹としての部屋は、「バナナフィッシュ」『F&Z』などでも繰り返し語られていくイメージだ。詳細各作品読解にて)
 ピノッキオのようなホールデンが部屋で向き合うのは、ゼペットのようなDB。それは兄であり、象徴的父であり、もう一人のホールデン。むろん、DBはハリウッドからホールデンに会いにやってくるわけだが、同時に、ホールデンが精神分析のカウチに横になり、半ばまどろみながら、無意識の領域へ、自らの内へ下降し、そこにいるもう一人のホールデンとしてのDBに会っているようなイメージが重なるようにも思える。
 それは、ホールデンが探していたもうひとつの〈聖杯〉。DBと会うことは、無意識の底に押し込めて忘れていた記憶やトラウマの一部を意識の側に迎え入れること。
 枠の外にいる語り手ホールデンが、数か月前にクリスマス前後の街を彷徨っていたもう一人のホールデンを迎えに行くこと。それは深層で、戦後、精神を病んだサリンジャーが、そしておそらくはこの作家と同じ体験をした多くの帰還兵が、戦時中に傷ついた過去の自分を迎えに行くこととも重なっているのではないだろうか。
 もう一人の自分=切り離していた精神の一部を統合すること。もう一人の自分としてのDBこそが、荒廃した精神を豊饒へと導く〈聖杯〉。
 聖杯を得て、クジラの腹から生まれなおすことが、神話・英雄の旅・聖杯伝説におけるハッピーエンド。だから『キャッチャー』は、病室からの再生を予感させる形で終わるのだ。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


いいなと思ったら応援しよう!