05_シビュラの託宣_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.05 シビルが若いころにバナナフィッシュを見たのはなぜか?
シビルが、巫女シビュラであることは01(上記リンク)で述べたとおり。このシビュラが語った神託をまとめたとされる詩集は『シビュラの託宣』と呼ばれている(Wikipedia)。この書物の真偽や成り立ちには諸説あるようだが、いずれにせよそこにはシビュラの名を借りて、天地創造、アダムとエヴァの楽園追放、ノアの方舟、バベルの塔、イエスの受難など、聖書的なエピソードが記されているという。
これを念頭に置いて再読してみると、「バナナフィッシュ」の後半部分、サリンジャーが当初完成稿としていた短い物語の中に、上記のモチーフが(かなり凝縮された形で)全部詰め込まれていることがみえてくる。バベルの塔については下記で述べた通り。
他についても、これから読み解いていくので、注目していただきたい。シビルは巫女として、シーモアをこれらのエピソードへ誘う役目を担っている。
サリンジャーが神話のモチーフを多用する作家であることは既に述べたが、『聖書』のエピソードも多い。これは研究者やファンの間ではよく知られた事実だろう。
中でも、「バナナフィッシュ」はその凝縮度においては群を抜いている。短い中に、あまりにも濃密に情報が詰め込まれているため、分かりにくく、そこが難点でもあり、魅力でもあるような不思議な作品になっている。
シーモアはシビルに、「きみも若いころにはずいぶんバナナフィッシュを見たことがあるだろう?」(26)と問う。幼い少女(3~4歳のシャロンと同年齢と想定できる、理由は後述)にいうにはずいぶん奇妙なセリフだが、これは彼女を、長寿を約束された巫女シビュラと読めというサイン。長生きして神託を預言してきた巫女は、長い間彷徨える人間たちの姿(バナナフィッシュの意味は後述)を見てきたに違いない。
神話においては、英雄の旅と同じように、人間の一生もまた円環を描く。本能の領域に近い幼児から、大人になるにつれて、理性的・社会的・世俗的な面が強くなり、老人になるにつれて再び本能の領域へと戻っていく。だから、年齢を重ねた老婆ほど幼児の姿で現れるのは、むしろ自然なこと。
神話の円環については下記参照。
『キャッチャー』で年老いたスペンサー先生が、赤ん坊のように描かれている様も下記でみた通り。
神話では、幼い者の方が大人社会の人間的な二項対立の世界に毒されていない分、神話的な世界に近く、神々の価値観を知る存在。神話をモチーフに書かれるサリンジャー作品において、永遠の少年は、ヘルメスのような幼児神としても現れる。「テディ」の主人公や、「ハプワース」の七歳のシーモアはこの例(詳細は各作品読解にて)。「バナナフィッシュ」において、シビルの水着の「上の部分が実際に必要になるのは、あと九年か十年してからのこどだろう」と、両性具有的な幼児体型が強調されるのは、シビルに巫女や精霊としての資質が備わっていることを示すもの。『キャッチャー』でフィービーに両性具有的なイメージが与えられているのと同じ(下記参照)。
シーモアの運命を見通す能力を持ったシビル=シビュラ=巫女・幼児神の託宣に導かれるようにして、シーモアは聖書的なエピソードを通過しながら、死へと向かっていく。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。