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『無用者の系譜』を読んだ。

唐木順三「無用者の系譜」、『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書、2013年)を読んだ。
美しい日本語だった。

ふつうに使われている熟語が時折辞書で引かないとわからなかったりして自分の日本語能力が不安になる。

「無用者の系譜」は、在原業平、一遍上人、芭蕉などの、高い思想を持ちながら、世間からみれば落伍者であり、「無用者」としての人生を自ら選んだ人物の生きざまを紹介し、「無用者」として宮廷や寺社、市民の社会や文化から脱出し、流浪することで、独自の風狂の文化を形成することができ、それが日本文化の根底を作っていったと述べられている。

 在原業平は自分を無用者として自覚し、世間における無用者であることを選び取った。

 無用者として浮世から離れることによってひらかれた観念の世界を歌にした。

 離れることによって近く、遠ざかることによって強烈な思いにかられる矛盾が『伊勢物語』を生み出し、観念世界を誕生させた。それが王朝文化や、文学の基礎をなしている。

 一遍上人は捨聖と呼ばれ、一切を捨てること、捨てる心をも捨てることで、苦痛の行脚ではなく、よろこびの遊行の境地に達し、念仏して歩く移動教団を形成し、一切を捨てるという思想は道元や芭蕉に共通し、吉田兼好の『徒然草』にも引き継がれている。

 西行以来、超俗、叛俗、捨聖、漂白の精神が日本文化の根底にあるが、固定癒着した文化を超えるために、宗因や芭蕉は主家を離れる、脱藩するなどして「無用者」にならなければならなかった。それは現実と思想が対立する「わび」の世界であり、さびの世界、風狂、風流、風雅の風の世界であり、自在の世界であるが、それは「無用者」でしか到達できない境地である。

さて、「おそろしきすきもの」と言われ、放縦不拘で好色であると認識していた業平像に新しい見方が出来たことに感銘を受けたが、以下のような疑問を持った。

 天皇の皇孫でありながら、出世の道が絶たれた業平と、権勢を誇った藤原氏の娘であり、天皇の女御候補であった、後に二条妃といわれた藤原高子との恋愛や、小野小町との恋愛である。

 己を無用者として自覚した男が、やがて天皇の母になる身分の女性に懸想し、駆け落ちまで目論むだろうか。美人で有名だったとされる才気あふれる小野小町を口説くだろうか。高子と業平は血筋では遜色がないが、権勢においては大きな差がある。

 そのような高貴な女性を口説くにはよほど自分自身に自信がなければ出来ないと推測され、世間における無用者であることを自覚している男の行動とは思えず、「無用者の系譜」で魅力的に描かれている業平像とのギャップを埋めることが難しく感じた。
 しかし、業平が世間における無用者であることを自覚したことで、観念世界を誕生させたという美しい論旨が、この作品の魅力のひとつであると考える。


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