「筆箱って時代錯誤だよね、から物語を書き始めようと思うんだ」 「誰も筆なんて使っていないじゃないか、という話?」 「そう」 「おもしろいとは思えないけど」 「物語の主題はロマンスなんだ」 「筆箱にはロマンスが詰まっているとでも言うのかい」 「若者は、ロマンスに恋をしている、ということをアンチテーゼとしたいんだ」 「何に対する?」 「まだそこは決まっていない」 「は?」 「ただ、若者は正しく恋をしていない。目が合ったとか、偶然同じものが好きだったとか、そういったロマンスそのもの
俺たちは、二人で坂を下りた。もう太陽は完全に沈んでいて、緑豊かな稲の隙間で、蛙たちが隣人に愛を叫んでいる。 「すみれはどうして公園に来たの?」 単純な疑問だった。 「とっしーからメッセージが来たんだ」 「そっか」 なんだあいつか。やっぱり口が軽い。もっとも、連絡するなとは伝えていないが。 こうもすぐに情報が洩れていくことに対してのうんざりする気持ちと、けれどそれによってすみれに会えたという気持ちが押し合いをして、今回は後者が勝利を収めた。 「それでね、秀に
俺は柵から立ち上がった。もうすぐ日が沈む。月も見えていた。誰かがコンパスで線を引いて、それに沿って夜空をくり抜いたような綺麗な穴から、満月が覗いている。 ただ、俺の中の夜には、穴は開かなかった。月光で照らされなかった。大人になっても、自分で夜空に穴は開けなかった。ずっと、誰かがやってくれるのを待ち続けるくらいには、俺は傲慢だった。 頬を、夜が伝った。零れると思うより先に、零れ始めていた。 寂しかったんだ。人の温もりを忘れた。老人の優しさを素直に受け取れなくて。友達
この坂はこんなに急だっただろうかと思う。一応まだ二十代前半だから、おじさんたちには「まだ若いだろ」と言われるが、大学三年の後半くらいからなんとなく体の衰えを感じている。 ゆっくり坂を登りながら、すみれのことを考えてしまっていた。同級生の誰かが、突然バイクを盗んで走り出すかもしれない学校に入ってからも、俺たちの関係には特に変化はなかった。しょぼい田舎だから、ひとつの小学校からそのままひとつしかない中学校に進学する。つまり、親に中学受験をさせられて、私立中学に行ったやつ分の人数
田んぼに植えられた苗が、だいぶ伸びてきて、辺り一面に広がる緑の集まりを眺めながら、俺は実家には向かっていなかった。まっすぐに、公園を目指していた。小学校の近くの、急に田んぼがなくなるところから坂道があり、ぐるっと回るように上がると公園がある。この公園を通り過ぎてもう少し登り、反対側に下っていくと隣町へ行ける。 まだ皆で、お揃いの黄色帽子を被っていた時は、その頃仲の良かった男女五人で、坂の上の公園に集合してしょっちゅう遊んでいた。その公園がもう遠くに見えていた。東京からの
別に空気が綺麗だとも思わない、中途半端な田舎に帰ってきた。 膨大な蝉時雨が、アスファルトを焦がして逃げ水を沸かしている。 東京から一本の電車で来れる栄えた最寄り駅。写真映えするスポットも多く、観光客に人気の街。ただそれは駅周辺だけの事実で、俺はその最寄駅から徒歩で一時間、あるいは自転車で二十五分、あるいはバスで二十分の地域に生まれ育った。 田んぼばかりで、コンビニもいちいち遠いから、家でだらだらしていた休みの日も、ちょっとセンチメンタルになった夜中も、「コンビニに