夏のバレンタイン(第4話)
俺は柵から立ち上がった。もうすぐ日が沈む。月も見えていた。誰かがコンパスで線を引いて、それに沿って夜空をくり抜いたような綺麗な穴から、満月が覗いている。
ただ、俺の中の夜には、穴は開かなかった。月光で照らされなかった。大人になっても、自分で夜空に穴は開けなかった。ずっと、誰かがやってくれるのを待ち続けるくらいには、俺は傲慢だった。
頬を、夜が伝った。零れると思うより先に、零れ始めていた。
寂しかったんだ。人の温もりを忘れた。老人の優しさを素直に受け取れなくて。友達の誉め言葉を毛嫌いして。家族の喜びを不幸の材料にして。変わらない明るさに、良いと言えなくて。チョコを箱に包む時、一緒に入れる気持ちから目を逸らして。
もういい。感傷的になって、タラレバを考え始めてしまう前に、さっさと落ちてしまおう。
取り柄のないこの田舎よりも、どうしようもなかった自分の人生を、これ以上直視しないように、目を閉じた。右足を前に出し、既に体が浮くような感覚を感じ始めた瞬間。
勢いよく、半ば抱きつかれるように捕まった。
「私に捕まるのって、一生の恥なんじゃなかった?」
少し呼吸の乱れた、優しい声がした。その声は俺の記憶をスクロールして、一瞬で十年以上遡った。紛れもなく、すみれだった。
だいぶ後になって思い返せば、この時、背後からの勢いで俺は落下しそうになっていた。いや、落下しようとは思っていたのだけれど。結果として、すみれが柵の反対側にいたことで、前のめりになった俺の体は抑え込まれる形となったが、それなりに落ちかけていた。ただ、俺は、体に伝わった衝撃により、開いた目から入ってくる情報よりも、脳みその中で起きた現象を優先して映像を見ていた。
すみれに触れられ、その声を聴いた瞬間、シックスセンスのラストで全てに気づいたあの瞬間のように、過去の記憶が走馬灯よろしく流れていた。
背中の人物の一呼吸を聞いて、止まった時間は動き出した。
俺は柵に座り、左足からゆっくりと柵の内側に体を戻した。化粧をしたすみれが、半歩離れて立った。
「会いたかった」
自分でそう口にして、「あぁ、俺は会いたかったんだ」と思った。
「久しぶりだね、秀。こういう時の第一声って、なんで……とかじゃないんだね」
「よく、わからない」
「……。」
「でも、ずっと、こうやって、捕まえてほしかった」
「ライ麦畑で?」
「そう」
「傲慢だね」
「うん」
ほんのりと、会話に間が開いた。目の前の女性を直視していられなくて、すみれの奥に見えるベンチやら遊具やらに軽く視線を走らせた。
「でも私もね、公園の入口から秀の背中を見つけた時、捕まえたいって思った」
「うん」
「チョコをね、思い出したんだ」
「チョコ」
「そう。正確にはチョコが包まれた箱に入っていた紙切れ」
「紙切れ」
日が暮れようと関係なく、こんなに暑いところでチョコの話なんてしていたら、とけてしまいそうだなと、どうしようもないことを考えていたから、紙切れで安心した。
「最後にもらったチョコについてた」
「……。」
「覚えてない?」
「え?」
俺が覚えているか問われる話だと思っていなかったから、準備していなかった。最後というのは、中三の時のことを指しているのだろうか。
「ありがとう、って書いてあった」
「紙切れに?」
「覚えてないんだ。中学卒業前の最後のホワイトデーで、秀がくれたチョコの箱にね、紙切れが入ってて。ノートの角を手で破いたみたいな紙切れ。それにね、ありがとうって」
「言われたらなんか書いたような気もしてきた。でもそれ関係あるの?」
すみれはすぐには答えなかった。すみれの、質問に対して丁寧に考えて答えてくれるところが、昔から好きだ。そして、考えている時に、軽く鼻をつまんですぐに離す癖も、変わっていなかった。
「関係あるかはわからない。ただ、あの時、私はありがとうって言えなかった」
「そんなこと……。俺も言ったわけじゃないし」
「私は後悔してた。さっき、この瞬間に捕まえなかったら、一生言えないんだって思った。一生の恥だって。だからね、」
すみれが顔を上げた。ヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。甘い匂いがした気がした。シャボン玉が、夕日の残り陽を浴びて、その輪郭を鮮明にしている。
「ありがとう」
「それは、……俺の台詞だ」
「また、チョコあげるね」
「うん。俺も」
こんなに暑かったら、チョコなんかすぐにとけてしまうだろうと、また思った。そして、チョコがとけてしまうより早く、というよりもう既に、俺がとけていた。
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