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自分と向き合ってきてよかった瞬間
ずっとずっと「対話」ができなかった息子たちと、最近、丁寧に話をする時間が増えてきた。
元々、脳の発達に特性のあった息子たち。
中1の長男とは、不登校になった小4の時をキッカケに深い心の話をする機会が増えたのね。
そして、小5の次男とは最近急に。
思春期ってそういう時期なんだろうね。
それまでに親子の関係をどんなカタチにしておくかで、心の通わせ方って変わってくるのかもしれないね。
そんなことを考えたから、大切なことだし、記録しておこうと思う。
子どもとの関係性を大切にする
今までね、心の発達を何よりも大切にしたいと思って接してきてたけど、思えば思うほど、心って見えないし難しくて。
子どもから伝えることが難しかった低学年の時は、上手く力になってあげられなかったのね。
長男のときも次男のときも。
一応、療育センターにフォローしてもらってたんだけど、難しかったよ。
だけど、ちゃんと積み重なっていたのかもしれないよね。
思春期になって、そこそこ難しい距離感になってきたんだけど、子どもたちの言葉の理解は深まっているから、ちゃんと話ができる。
もちろん、その兆候をキャッチするとか、話のタイミングは気を遣うけれどね、丁寧に対応すれば、それなりに心のうちを話してくれるようになってきた気がする。
言葉のひとつひとつにとらわれ過ぎず、感情や感覚のカタチを理解することも必要だし、こっちの考えや想いも伝える部分もあったりするし、ただただ吐き出させてあげた方がいいかなって思うときもある。
どんなカタチであれ、対話する時間が大事だと思っていて、「私はあなたを大切に思っているし、丁寧に関わりたい気持ちがある」ということを何度も伝えたり、態度で示したりすることを意識してる。
こういう対話する時間が大切じゃないかと感じてる。
だから結果的に親子の関係が崩れるような対話の仕方は絶対にしないと決めていて、話にならなかったら、ただうんうんって聞くだけにしておいたりして、常に意識は関係性。
長く続く関係だから、悪くしないこと。
伝わらなくても伝えたいことは伝えること。
相手の気持ちを理解すること。
そんな双方向のやりとりも意識してる。
行き詰まりを感じていたワケを知る
日々を生活しているとね、昔よりも今の時代の方が、心を大切にする時間ややりとりが大事になってきてるとすごく感じているのね。
考え次第で何でも選択できてしまう世の中だから、心の安定やバランスがとっても大事なんじゃないかと。
イライラしていたり、焦っているときは、無謀な判断をしがちだったりするし、大切にしたい人ほど甘えが出てつらく当たってしまうことだってある。
私はそんな経験をたくさんしてきて、やっと心の安定やバランスの大切さを実感できるようになったのね。
そして、どうやってコントロールしていくのがいいのかの試行錯誤を繰り返してきたの。
だけどその過程はつらかった。
上手くできない自分をたくさん責めたし、周りの人は誰もが上手くやってるように思えて孤独だったの。
だけど、その学びが子どもとの対話に確実に生かされているってね、今すごく実感していてね、子どもの思春期に間に合ってよかった!って本気で思う。
5年前の自分だったら、こんなふうに子どもたちと穏やかな心で向き合えてないと思うもの。
子どもの話も俯瞰して考えずに、感情的にやりとりしちゃってたかもしれない。
これからホルモンバランスが崩れる更年期がやってくるじゃない?
めちゃくちゃ振り回されそうな予感がしてたけど、この状況なら心を落ち着けて受けとめられそうな気がする…なんて甘いかもしれないけど。
そう思うと、自分の心のザワザワとか、焦りとか、悲しみとか、行き詰まりとかにはさ、それなりの理由があるんだろうね。
そのときはわからなくても、その気持ちと向き合っていくことが大切で、そこに向き合って成長していくことで、次の何かに向けての準備が出来上がるというか。
私は子どもの思春期と向き合う心構えだったり、自分の更年期に向けての下準備だったりしたんじゃないかって、今言語化しながらハッと気づいたよ。
今まではさ、自分で自分の心を成長させてこれなかったせいで、今私は苦しんでるんだ!って勝手に自分を責めてたけど、そんなこと思わなくてよかったんだね。
次に向けて、今必要だったから、目の前に現れただけってこと。
目の前の上手くいかない現実には理由なんてなくて、ただ今の自分に必要っていうだけなんだね。
安心・安全は当たり前ではない
先日の事件で、私はめちゃくちゃショックを受けたのだけど、時間が経ってその理由が少しわかってきた。
自分が当たり前のように思っていた、安心・安全な世界というのは当たり前ではないってこと。
当たり前だと思っているから、そうではない現実にとてもショックを受けるのよ。
でもね、多分当たり前だと思っていた人もいれば、この今の日本に安心・安全な場所はない!と思って生きている人もいるのよね。
実は、今回の事件で出てきたある宗教団体の信者の2世の苦しみ、みたいな記事を読んで、その具体的な実態にビックリして。
そういう世界もあったんだ、と。
そういう世界で苦しんでいた人にとっては、この日本社会は安心・安全ではなかったんだと思ったのね。
夫も、この世の中に安心・安全な場所はない、と常に警戒している姿があって。
私は性善説がベースにあるから、ある意味お花畑で生きてきていて。
夫のその不信がベースの生き方に、そこまで警戒する理由って何なんだろう?って疑問に思ってきたし、世の中にはもっともっと愛があふれてると信じて疑ってなかったのね。
大人になればなるほど、そのお花畑は通用しなくなってきて、空回りが増えた。
薄々わかってきていたものの、ハッキリと言葉にできるほど認識できてなかったんだけど、やっとわかったよ、私。
安心・安全って、当たり前じゃない。
家庭には安心・安全があって当たり前のように思っていたけど、当たり前じゃない。
親と子どもの双方の働きかけがあって、実現するものなんだよね。
そして、世の中も安心・安全であってほしいと願うけれど、それは当たり前ではないんだよね。
当たり前だと思っているから、そうではない現実に悩むことになる。
私はずっとそうだったかもしれない。
だから、安心・安全を無意識のうちに社会に求めてた。
それがあったから、私はダダ漏れしちゃってたんだわ。
社会に心を開き過ぎてたのね。
安心・安全は、子どものうちはできれば家庭の中で感じられたらいいと思う。
でも、親ガチャとかいう言葉も流行ったみたいに、選べないしね。
それにホラ、親ガチャだけじゃないよ、脳ガチャもある。
自分の脳の特性だって選べないのよね。
安心・安全だってそう。
安心・安全を子どものうちに感じられたらそれは幸せなことだけど、そうじゃなかったとしても、それを今度は自分の中に安心・安全を作っていく、というのが必要な流れなんじゃないかな。
それが精神的な自立なのかな、と。
安心・安全は誰かに与えてもらうものじゃなく、自分の中につくるもの。
私はこれができてなかったと思う。
だからすごく苦しんだんだ。
私の中に安心・安全をつくる
私にとって、安心・安全を自分の中につくるとはどんな感覚か、自分に聞いてみた。
そしたら、自分と周りとの線引きだった。
私は誰かの役に立ててないと、自分の価値がないように感じてしまってるところがあって。
誰かの役に立っている状況にしか、安心・安全を感じられてないように思う。
まずは自分で自分の役に立つ。
自分を応援する。
そして、自分以外の世界に関しては、最低限必要なことを淡々とこなしながら、自分が大切にしたいと思っていることに少し力を入れる感じでバランスを取る。
私は気づくと他人軸に引っ張られる方だから、そんな意識がちょうどいいかな。
その経験が、きっと子どもの気持ちにも寄り添えるし、仕事でも自分の人生を豊かにしてくれるんじゃないかと、今日は少し実感できたから嬉しい。
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