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「髪を切ったわたし」に誰も気づかなくても、わたしは美容室に行く。

世界中をコロナ禍が襲った2020年の暮れ。
衝撃的なニュースが舞い込んだ。
わたしが長くお世話になっていた美容師さんが、日本に本帰国を決めたのだ。

コロナでニューヨークの街から人がいなくなった。
エッセンシャルワーカーと呼ばれる美容師さんも、仕事が激減した。
予約が取れないほど人気のサロンでも、閑古鳥が鳴いている。

ずっと苦労してきた「お気に入りの美容師さん探し」の末路にたどり着いたはずだったのに、わたしはまた放浪の旅に出ないといけない。
どこに行ったら、運命の人に巡り会えるのか。

この長い旅路をふり返り、わたしがずっと封印していたあのことを告白しようと思い立った。
大人になったから、話してみよう。

わたしが「キンタ」というあだ名で呼ばれていた暗黒時代のことを。

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幼い頃から、おねだりをするのが苦手だった。

築50年くらいの木造平屋の都営住宅に、一家五人が六畳一間で暮らしていた幼少期。
とにかく我が家は貧乏で、ないものだらけの生活が当たり前だった。

お風呂がないから、父がレンガを積み上げて風呂場を作ったけれど、
脱衣スペースは、台所の隅にある板の上だった。
冬は冷凍庫のように凍てつき、夏はサウナのように蒸し返す。
お風呂は世界で一番嫌いな場所のひとつだった。

お菓子を買ってもらえず、母が作るプロティンクッキーはあまりに不味くて、家で浸けた梅干しや草加せんべいを、水屋の戸棚からこっそり持ち出して食べていた。

仲良しの従姉妹や幼なじみは2階建ての家に住んでいるのに、
ガラガラと横に動く障子戸のような玄関しかない我が家に帰る時は、
子供心ながらに胸がキュンとしていた。

今思えば、本当にありがたいことだけれど。
髪の毛を切るのも、洋服を作るのも、すべて母の役目だった。
毎年春休みにマッシュルームカットにされて、秋冬を通して肩まで伸びた頃、また春休みがきてザンギリ頭にされた。

わたしのアルバムは、髪型を見れば季節がわかる。
毎年春休みがくるのが怖かったし、斜めに曲がった前髪を鏡で見て、激しく落ち込んだ。
「誰も気にしていないわよ」という、母の常套句だった。

父が脱サラ起業してからも、ずっとそんな生活が続いていた。

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ある時、我が家が引っ越すことになった。
新築2階建て、新しい畳の匂いがする家の中で、両親は泣いていた。

そして。
わたしは地元にある区立中学の門をくぐった。

当時はツッパリ不良の全盛期で、隣の中学との対決が当たり前だった。
少しグレた同級生は、セーラー服のスカートを長くして、
男子生徒の学ランのズボンは、ドカンと呼ばれるほど太かった。

毎週月曜日に「生活検査」というのがあった。
髪と爪の長さ、ハンカチ、学生カバンの中身まで、
生活委員担当の先生が、竹刀を振り回しながらチェックしていた。

女子生徒はみんなショートカットで、前髪が目に触れてはいけない。
鹿児島出身の母譲りか、眉毛と目の距離が近いわたしは、いつも「眉下ギリギリに切って」と母にリクエストしていた。

母は相変わらず不器用で、前髪はいつも斜めに切り揃えられていたけれど、
クルクルドライヤーを使って、何とかごまかしているうちに、落ち着いた。

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ある日曜日の夕方。

家の前の道路で竹馬で遊んでいたら、父の声がした。
「美香、一緒に髪を切りに行こう」
「巨人の星」星一徹の父のように頑固で厳しい父のひとこと、娘はただそれに従うだけだった。

気がつくと、わたしは地元の床屋のイスに座っていた。

髪がハラハラと床に落ちていく様子に、呼吸をするのも憚られた。
あっという間に前髪が、眉毛の上でパツンと切り落とされた。

ずっと丸顔がコンプレックスのわたしが、ドッジボールみたいに鏡に映っていた。
わたしの目から涙がこぼれ落ちたのを、床屋のマスターは見て見ぬふりをした。

月曜日の朝。
どうしても学校に行きたくなかったけれど、
「いい子」をふるまっていたわたしに、「ズル休み」という選択肢はなかった。

教室のドアを入った時に、最初に目が合ったのが小林君という同級生だった。
一瞬、沈黙があった。

そして大爆笑をした後に、彼が言った。
「金太郎、金太郎、キンタだ!キンタだ!」

その日から、わたしの名前に「キンタ」というあだ名が加わった。

もちろん親しい女友達は、いつものように「ミカ」と呼び、
先生からも、名字で呼ばれていたけれど、
少し仲良しの男友達が、からかうように「キンタ」と呼び続けた。

最初は聞こえないふりをしていたのに。
いつしか「キンタ」と呼ばれるとふり返るようになった自分に驚き、
あだ名の持つ力って恐ろしいなと思った。

以来、中学を卒業するまで、一部からずっと「キンタ」と呼ばれていた。

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高校入学と同時に、「キンタ」のあだ名を封印した。

地元の路上ですれ違った時、「おー、キンタ!元気か?」と声をかけてくれた同級生のみんな、全無視してごめんなさい。

それなのに!!
わたしと同じ中学に入学した4歳年下の弟が、ある日、ため息と共に帰宅した。
「みーちゃん、今日の俺、最悪だった」

どうやら、わたしの担任だった先生が、パンドラの箱を開けてしまったらしい。
「お前の姉ちゃんは人気者だったぞ。ほら、これを見てごらん」

掃除中、机に裏返して上げられたイスを見て、弟は腰を抜かした(らしい)。
そこには「○○(旧姓)キンタのイス」と大きく書かれた文字が鎮座してた。

弟よ、みんなの前で姉の不名誉な過去を暴露されてごめん。
悪いことをしたわけではないのに、やたらと胸が痛かった。

あの時の、床屋のおじさんの腕が悪かったのではないと信じたい。
思春期の女子中学生を有無を言わせず床屋に連れて行った父の暴君ぶりに、逆らえなかったわたしの過失だった。

ただ、あの事件以来、髪型が気に入らない朝は学校に遅刻してきていた同級生の気持ちが分かるようになった。

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たくさんの時が経ち、いつしかわたしは母親になった。

重い障害を持った娘が生まれ、「髪の毛ふり乱して」子育てをしてきた。
いやきっと、世の中のママたちはみんな、そうやって必死で我が子を育てている。
仕事をして、子育てをして、自分の容姿に気を使う余裕なんてない。

ニューヨークで、日系企業の米国進出サポートの仕事をしているなかで、
美容室の立ち上げに関わったのは、運命だと思った。

2−3ヶ月に一度。
アジア人の髪質をよく知っているプロにお任せできる。
至福の時間を持てることが、何よりのご褒美になった。

ふと気づけば、頭にチラチラと白いものが見え隠れするようになり、
少しでもそれが目立たない作戦を立てるために、美容室に行くようになった。

「髪は女のいのち」と言われるけれど、
今の生活で、わたしの髪型が変わったことに気づいてくれる人はいない。

それでもわたしは美容室に行く。

「キンタカット」のほろ苦い思い出と共に。
たぶん、きっとそこが唯一の、女性を意識できる場所だから。

あの同級生にばったり会ったら、今度はわたしから声をかけてみよう。
わたしはすっかり、大人になった。

そしてまた、美容師探しの旅が始まる。


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