#2 一度立ち止まって、「客観性」を再検討してみよう
「偏向報道」や「マスゴミ」。こうした言葉はインターネット上では左右を問わず広く使われている言葉だ。マスメディアを批判するツイートがバズる例は枚挙にいとまがない。もう少し高尚なテーマで言えば、いかなる社会科学にも(もちろん私が専門としている経済学にも)、価値判断の出発点が個々の研究者の問題意識である以上、いかなる理論であれ客観性とは真逆の思想性を持っているというのは重要な指摘であろう。したがって、ここで一度「客観性」とはなんぞやということを問い直してみる必要があるのではないか。
ここで参考にしたいのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称「プロ倫」)、『職業としての学問』、『職業としての政治』などで知られるマックス・ウェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(通称「客観性論文」)である。
ウェーバーは、この「客観性論文」において、「理念型」と「価値自由」という概念を持ち出した。「理念型」とは簡潔に説明すれば、経験的事実から分析を行う上で重要であると考えられるものを抽出しそれ以外を捨象することによって経験的事実を再構成したものである。そして、この「理念型」をウェーバーはあくまで手段に過ぎないとしている。
理論経済学でいえばモデルが理念型に当たるだろうか。理念型(経済モデル)はあくまで分析の手段であり、経済モデルを完成させれば研究が完成したのかといえばそれは違うのである。そのことは、経済学者の中に理論家と実証家がいることからもわかるし、多くの理論経済学の論文で単にモデルを解くだけではなくデータと照合したり数値例を用いてシミュレーションをしたりすることにより頑強性をチェックしていることからもわかるだろう。理論家と実証家が分業するにせよ理論家が一人で頑強性チェックまで行うにせよ、「理念型」の当てはまりをそのつどそのつど経験的事実の中に照らし合わせて確かめつつ、同時に経験的事実から「理念型」をさらに磨き上げる。これが重要なのである。
加えて、「理念型」を形成する際に重要であると考えられるものを抽出することにより経験的事実を再構成すると述べたが、このとき、何が重要と考えられるのかは結局のところ分析者の価値観に依存しているのである。というか、そもそも分析対象となる問題を選ぶ段階で価値観に依存せざるを得ないのである。であれば、いかに「客観性」を装ったところで科学が一切の価値判断から逃れることなどありえようかという話である。
では、ウェーバーは「客観性」などどこかに捨ててしまえ!とでも言ったのだろうか?そんなことはない。第一に、経験的事実を分析するうえで、分析者はその意義を価値観に基づいてしか理解することができない以上、分析者自身が何らかの価値観に依拠していることを徹底的に意識することが必要なのである。第二に、価値観の領域と経験的事実に対する判断の領域を区別し、価値観を経験的事実に対する判断の妥当性の証明に持ち込まないこともまた重要である。このような態度をウェーバーは「価値自由」と呼んだ。大学生以上であれば、少なくとも一度は、レポートの書き方で事実と自分の意見を区別するようにという指導を受けたことがあると思うが、その重要性はまさに「客観性論文」の文脈に照らし合わせることによりよくわかるのではないだろうか。
ところで、慶応大学商学部の権丈善一教授は、『ちょっと気になる社会保障』という本の中で新古典派(主流派)経済学を批判する文脈においてこのようなことを述べているそうである。
社会保障の歴史を学ばない、社会保障に詳しくない普通の(右側の)経済学者が、右側の考え方に沿って公的年金を考える。オルテガが『大衆の反逆』の中で描いた「近代の野蛮人」たる科学者として社会保障の舞台で振る舞う。
自分の操作する分析ツールが自身に先入観・偏見を植え付ける「色眼鏡」に変質するということだ、しかも、それが「科学」「学問」の名の下に本人が意識しないうちに頭の中を支配するのだから、経済学というモノは罪深い。要するに、入り口で間違えると最後まで間違える。そういうことだ。
この本を読んだことはない(おそらく読む価値もないのだろう)が、本当にそうだろうか?何らかの問題意識があるからこそわざわざリスクを冒してまで大学院に進学するのである。ということは、そういった志のある人であれば自らの経験に導かれて価値観に依拠しているはずだ。学部でも大学院でも新古典派だけでなくケインジアンやマルクス主義に触れる機会もあるのに、そんな彼らが学部初歩の講義で洗脳されたまま、無意識に価値観を支配されているなどということが果たしてありえようか。
少なくとも私に関していえば、リバタリアニズム(これもまた別の回に触れる予定)が生きづらさに抗うための解放の哲学であると信じているし、日本経済が長期停滞に苦しんでいるのだって生産性の伸びの少なさや雇用の流動性の低さがもたらす賃金の上方硬直性にあると考えているからこそ、経済問題を分析するうえで新古典派経済学に依拠しているのだ。無意識に価値観を支配されるなどという言説はどこまでも人をバカにしている。そんな受動的な生き方をしてたまるものかと言いたい。ここに、以後、非中立的な立場で、公正に、曲学阿世に走らずに論考を書くことを表明する。
参考文献
マックス・ウェーバー著、富永佑治・立野保男訳(1998)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 、岩波文庫。
香取照幸「経済学を学ぶ人が絶対に知っておくべきこと 無意識にあなたの価値観を支配する怖さ」、東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/260784