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答えは無いとわかっていても…。

私がひたすら独り言ちているのは、
誰のことも傷つけたくないから。

それを場合によっては、
「裏アカ」と呼ぶかもしれないけれど、

誰か特定の人に話す事だって、
憚られるようなこともある。

かと言って、全てを自分の中に留めておける程の
強さも持ち合わせていない…。

アウトプットや表現することは、
時として必要だと思う…。

山や海に叫んで、
スッキリする人もいるのかもしれない。

ある人はスポーツに打ち込んで、
ある人は音楽に没頭して…

けれど、心底好きなものさえ
向かう道を断たれたら?

どうすれば良いの?

そういう中で見つけた解決策が、
私にはnote だった。

哀しいよ。

不毛な争い…なぜ起きる?

規模が大きくなって初めて、
社会や世間は、それはダメだ!と反応するけど、

小さな諍いは結構身近で起きている。

そんな些細なことは、
全く気にせず普通の生活を
続けられる人もいれば、

その空気に触れるだけで、
眠れないくらいのアレルギー反応を
起こしてしまう体質もある。

そう、一種のアレルギーと思えば、
HSP も不思議ではない。

あらゆるものが、強すぎる…。

電車に乗っても、
平気で中吊り広告がある。

そんなものに反応する方がおかしいと、
理解出来ない人が居ることも分かる。

でも、花粉症の人が、
花粉まみれの車両に乗れるだろうか?

アレルギー反応が無い人にしてみれば、
花粉が舞っていても、
その辛さは理解出来ないように、

辛さというのは、
本人にしかわからない。

こんなことも、
誰かに対して言ったなら、

なんて勝手な理論を振りかざすのかと、
パワハラだ、モラハラだと、
言われかねないのかもしれない。

でも、理解出来ない痛みに対して
真っ向から否定することは、
それは当たり前のことなのだろうかと、
私には疑問が残る。

「そんなのは耐えられて当たり前」と、
言われる事で傷付くのは、

傷付く方が間違っているのでしょうか?

*

極力、争いたくない。
批判も否定もしたくない。

ただ、心地よくいたいと思っても、

求める心地良さが違う場合、
どこに理想的な折衷案があるのかと思う…。

こうして独り言ちることで、
何かを見つけられるなら、

それに越したことは無い。

時として、「時が解決する」という作用も、
少なからず働くように、

その過ぎゆく時間の間、
自分の心を自己解決出来るようになることが、

必要なこともわかっているつもり…。


哀しいことを、
哀しいと口にするだけで、

あるいは、こうして書いて、
放出するだけで、

その想いは空に届くような気もする。

どうして生きることは、
こんなにも難しいのだろう…。


ありがとう、ごめんねって、
気軽に言い合える関係なら、

こんなに悩んだりしないのに。

そしてそれが、
簡単に「それなら、さよなら」って、

言えるほど遠い人なら、

こんなに悩んだりしないのに…。



一番近くて、一番遠い。


地球の裏側に住んでるくらい
物理的に遠い人の方が、

不思議とわかり合えることも、
あるというのにね…。



価値観というのは、難しい。


相手を尊重し、自分も尊重し、
ゆえに離れる選択が最善という事が
目に見えてわかっていても、


それが現実的では無い場合、
心だけで切り替えられるものだろうか?


互いに依存していないなら、
争うことも、すれ違うことも、

そもそも不機嫌になることも、
ないはずではないのかと、

ひたすら疑問に思う…。


なんとか穏便に、解決したいところ。




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