呟くには、ながすぎたので。その2
友だちのおすすめで知った10YCというブランド。
そこのしもださんのトークにお邪魔してきた。
お話を聴きながらメモしてたやつから、今特に自分にビビっときたことをいくつか書いておこうと思う。
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"自分たちの手で届ける"
"自分たちの言葉を濁さずに伝える"
目に見えるモノ、手に取れるモノ、だけじゃない。
そのモノが纏う、いろんなストーリーも一緒に届けているんだなと思う。
しかもね、それを自分たちの「手」でっていうのも大事なポイントな気がして。自分たちでその温度感を確かめながら、その熱を次の人に手渡しているような、そんな印象を受けた。
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"自分たちはなにも持っていない。"
"ただ、UserとFactoryとを繋いでいるだけ。"
その繋ぎ手、こそが大事なんだよね。
つなぐ人がいないケースって多分、日本中(に限らず世界単位でもかもしれない)いたるところにあるんだろうなあ。つなぐ人がもしゼロになってしまったら、自分たちはものすごく大切なものを失ってしまうんじゃないか。
「当たり前」は当たり前じゃない。
ものづくりに限らず言えることやと思う。
人と人も、人と地域も、人と何かのきっかけも。つなぐことができる人を見つけることと、育てることと、そうした人がちゃんと「活きる」環境と。そうしたところに価値があると思って、大事にしていけるような世界で生きていきたいな。ただ機械的に、じゃなくて、きちんと熱量を伝えることができるようなつなぎ手に、私もなりたい。
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"つくる責任"
"つかう責任"
これもものづくりに限らず、今自分が携わらせてもらっているような、地域や人のつながりという文脈でも同じなんだと、ハッとさせられた。
ただつくって、はい終わりー、じゃない。
本当にちゃんと熱は届いてる?
本当にそこに笑顔はある?
続けようと思う時にちゃんと継続できるような状況にある?
...
ただただ消費するだけ、じゃない。
これってどうやってこうなってるんだっけ?
どんな人が関わってるんだっけ?
無関心になってない?
これが「当たり前」でいいんだっけ?
...
そういうことをちゃんと(頭で、というよりもむしろ心で)受けとめて、一方通行じゃないキャッチボールができるような人でありたい。
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"つくり手の想いを言語化する編集者が必要"
モヤモヤの民の私の挑戦でもある言語化。
これってもやもやと向き合うためだけじゃなく、何かをつなぐ役目にとってもキーワードなんやなと思った。
「いち、参加者(消費者)」からつくり手に近づきたいと私が思うのも、どうやって誰の手を通ってどんな想いが重ねられて今ここにあるのか、とか、そのストーリーの纏う熱量に魅力を感じるからで。それをまた自分の大切な誰かにも知って欲しくて、感じて欲しくて、伝えたいなと思う。
それならば、私にとって言語化は、自分のもやもやと向き合う一歩、というのとはまた別の、大事な意味を持つものかもしれない。
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あと、"「Made in JAPAN」が勝手に衰退していっている"という言葉も衝撃的だった。日本製は高いから、という理由でまず選択肢から外されていたりして、同じ土俵に立てていないというケースがあるって。
前から興味のあった日本の技術とか文化。最近はそうした「つくり手」「つなぎ手」の人を自分の中でなんだかすごく身近に感じているということもあって、まず日本製というだけで関心を持ってもらえない状況ってすごく寂しい。こんなに素敵な表情で、手で、想いで、ストーリーを紡いでいるのに。
私に何ができるって、何もできないかもしれないけど。何かしら、ストーリーのワンセンテンスくらいは大切な誰かに伝えることができるようになりたいと思った。
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改めて、
行って、見て、聞いて、触れて、感じることを大切に。
2019.3.10
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