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正解がある事はないの視点

何が正しいか間違ってるかという正解を選ぶ教育が溢れる日本社会。

例えばひとつの事柄について、自分で視点を変えてみたりして、いろんな方向性から考えてみた事はあるだろうか?

これは、正解!これは、間違え!

とラベルを貼れば、物事はとてもスッキリとわかりやすくなる。

けれど、あなたが正解と思ったことを敢えて反対側から考えるトレーニングをしてみて欲しいと思う。

あなたが一旦「これは正解!」と思ったとして、それはどうしてなんだろうか?

自分が好きだからとか、嫌いだからが基準になっていないだろうか?

だとしたら、それは感情の問題だから人それぞれ感じ方が違うはずだ。人それぞれの性格に起因する。

あなたの感情が大切なように、他人の感情も大切だから、感情ベースの決めつけだったら相手の気持ちも尊重しないと変な話だ。

または、何度も刷り込まれた経験によっての慣れで、それが当然と思ってるから居心地よく感じるのかもしれない。

本当に、目の前のものが好きなのか嫌いなのか。
今している行動は、本当に自分や相手が快適にいられる事なのだろうか。

「正解」を教え込まれる。

その過程に誰かの思想が入っていないか、考えることは大切に思う。

果たしてそれは本当にあなたの思想なんだろうかということ。そしてその正解とやらは、いつも他人に当てはまるのだろうかという事も…。

遺伝子レベルから異なる他人。

全く同じ人生を歩み、同じように人格形成されている人が、どれほどいるか?性格は微妙に異なるのが真理だ。似ている感じの人はいるかもしれないが……。

一歩、日本から出ればその正解とやらが非常に曖昧であることに気づかされるはずだ。

これは国によって大きく異なる。そして、どの国の人も同じで毎日ハッピーに過ごしたいと願っているだけに思う。

個々人としての「違い」が日本よりは明確というのもあるし、何を基準にするかで行動が変わりそれが常識となる事実がある。

絶対にこれが常識なんてものはない。
そう考える時点で、視野が狭い。

日本人は英語を使いこなして会話できる人が少ない。これは、個々人の「正解」の許容度が狭いこともひとつの要因であると思う。

相手に対し、理解しようとする意識が少ない人が多いので似たようなものとしか話せない。であれば、似たようなものが少ない場所では対話はできない。自然と会話が減るので慣れない。

どんな人とお友達になるかは自由だけど、自分と違う人を「変な人」とか「普通じゃない人」とかレッテル貼りするのは相手にとっては迷惑な話。
向こうからすれば、そう決めつけてる人が「変な人」とか「普通じゃない人」だからだ。

よく考えてみて欲しい。いじめっこみたいになっていないかを…。

価値観の押し付けが非常に多いのが、日本と思う。

しかし、組織では決められたルールがあるのは事実。外国でも空気を読む社会はある。
だから、組織に対しこの方が良いと思えば意見を言いに行くし、合わない無理と思えば清くやめる人も多い。

人に適度にドライな対応をし、余計なお節介をしない方がみんながハッピーなのは真理と思う。

だから、日本社会の生活に馴染めなかった人が海外が快適というのは大いにあり得る話。
英語力がネーティブスピーカーに敵わなくても、上手くやってる人もいるのはこのためだろう。

相手の違いに寛容であれば、ストレスレベルが低く相手を見ようと思うので会話が可能。
郷に入れば郷に従えもでき、それを変えた方が良いのかなと思えば、対話や交渉ができる。

そして、時として互いの意見を擦り合わせ、より良い環境を一緒に探していくこともできる。
コミュニケーションのひとつの良さである。とても素敵な事じゃないか。

これは、正解を完全に決めつけた思考のまま英語を暗記しても到達できない話だ。語彙力とかの話ではないからが理由。

ちょっと違う意見を言われただけで、自分と全く違う価値観なだけで、嫌な気分になって避けているようでは、そもそも英語を使えない場面が増える。

柔軟に頭を動かせてこそ、持っている知識が活かされる。そして、間接的に英語脳も育つと思う。英語と日本語は真逆の言語なので、違いに寛容な方が頭に入りやすい。

「正解がある事はないの視点」は、結果英語力の向上につながる。そうも思っている。

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