映画『ノック 終末の訪問者』
面白そうと思っていたけど、見逃していた『ノック 終末の訪問者』(Knock at the Cabin)という題の映画をNetflixで見つけ鑑賞してみた。
題名のとうり、小屋(Cabin)をノックする音から、奇妙な出来事や恐怖が始まる。そんな映画。
ホラー映画では、山小屋が舞台として頻繁に設定される。この『ノック 終末の訪問者』も山小屋舞台のそれ系の密室物だった。けど、残虐場面はそれほど見せていないから、がっつりホラーという感じではないなという印象。
監督は、ミステリアスな雰囲気が持ち味の映画を作るM・ナイト・シャマラン。
「分からないこと」がいかに怖いか。
そして、それを機に、狂気に走る人の恐ろしさを描写した印象が強い。
邦題にもあるように、
あ、これでもう我々は終わりだ…。
人は碌でもないもので、罪深いものだ…。
という人類に対する「終末」的な悲観論が合わさった時に、人がどう狂っていくかを、異常な山小屋の訪問者という数人から画面越しに見せてくれる。
なんだか、フィクションとも思えない。
現代社会のほんの縮図。そんな気がした。
人間社会というものは、まずは、「個」を起点として、「集団」が生まれる。それは時として、強さになるのだが、またその一方で狂気じみた破壊にもなり得る。
台詞の中にも、あった
「エコーチェンバー」がそのひとつの象徴だ。
似たものばかり見ていて、それが心地よいと感じると、それ自体が最も正しいと思い込み、思考が極端に過激化していくという現象だ。
周りからは、異常に見えても、その界隈ではそれが通常に見えてしまうという狂気。だから、この映画でいう「終末の訪問者」らは、全員真面目でマジに己の正義を全うしているのだ。彼らの行動様式を見ると、それが分かりマジで怖いのだ…
これは、分断の構図である。
いきすぎれば 最終的には破滅に繋がる。
恐ろしいものである。
このSNSがある時代、
“ネットの海は広大だわ。”
と攻殻機動隊の素子が言った台詞を胸に留めるべきなのだ!
そんなことが、ちょっとよぎってしまった 笑。
ある山小屋に、突如現れた謎な訪問者。もしかしたら、とてつもなくそこら辺にいるなんの特徴もない人が、狂気を携えたと捉えることも別にあり得ちゃうなあと。
今、世界では穏やかではない状況が、あちらこちらで起こっている。しかし、それを細分化していけば、結局は「個」になる。
この映画に登場している女の子は、まだ幼い故に、大人のように知恵が膨らんでいない。そのため、純粋である。
ただ、毎日が楽しく幸せならそれで良い。
その基本があるのが子供である。あれこれ考えても、結局その基本に辿り着くんじゃなかろうか。最後まで観てそんな気がして、良いなと感じた。
『ノック 終末の訪問者』は、密室と人の関係性を上手く表した例えを画面に映しているという点で評価できる映画に思った。
シャマラン特有の、これから何が起こってしまうのだろう…。とか、唐突などんでん返しが好きな人はひょっとしたらあまり好みではない映画だと思った。そういう個性は、あまり感じない。
逆に、ジワッとした怖さを背景に、社会風刺を見せてくれていると捉えれば優秀な映画で、面白いなあと。ひょっとしたら、今までシャマランの作品苦手だなあと感じている人の一部も、良い意味で気にいるかもしれない。
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英語のことについて書いている私のnoteですが、英語圏の映画を観た際には、映画レビューもたまに書いています。
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