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自分を恥ずかしいと思うのは宇宙への侮辱です_自己受容は自分を自我の手から解放すること

この記事では、自己受容とスピリチュアルな成長をテーマに、自己価値に気づく考え方を紹介します。自分を受け入れ、内なる宇宙と繋がる方法を探ります。



自分が恥ずかしい=自分は自我のもの

できない自分、ダメな自分が恥ずかしい、嫌い。なにかうまくいかないことがあると、こうした思いにとらわれることがあります。

なんならこれが平常運転という人もいます。

この状態というのは、自我に捕まっている状態です。自我に捕まると自己受容が難しくなります。自我は自我の望むとおりのあなたでいてほしいから。

ワンネスとか、宇宙とつながる、という感覚を体験したことがあれば、そのとき自分というものはただ大いなる存在の一部であり、なにができるできないはその存在の価値になんの意味ももたらしていなかったと思います。

この身体、この頭脳、この心、すべてはあなたの個人的な所有物ではありません。

これを作って地上に生み出したのは神、内なる宇宙、といった存在。

だからもし、自分からみてできない、ダメと思える個性を持っていたとしても、それは神様が意図してそのように作った完璧な創造物で、その自分だから体験から生まれるエネルギーがあり、それが神様にとっては宝なのです。

人にやりこめられて自分はバカなんじゃないかと思ったり、社会の何の役に立たないと感じたり、迷惑をかけてばかりだと思ったり。そしてそれはこんな自分だから。これがない、あれがない、余計なこればかりある、そんな自分だから価値がないと断罪したり。

そう思っているすべてはあなたのものではありません。作ったのは神様です。神様のものなのです。万物の創造主ですべてをすみずみまで愛する神様のもの。神様の創造物に価値がないはずがありません。

だから、恥ずかしいなんて思う必要はありません。だってあなたの存在のすべては神様が作ったもの。神々しい愛そのものの権化。恥ずかしいというのは自我の、分離した個の感覚です。他人からそうみられると勝手に思っているあなたの評価です。

神様がつくったものを恥ずかしいと思うなんて、ずいぶん尊大だと思いません?自己価値を認められず自己受容できない人って、こういうことです。

私たちは劇の中の人形でしかない

誰もが一生懸命に生きています。与えられた身体と頭脳と心に体験をさせています。

たとえば、操り人形の劇で道化の人形を操っている人は恥ずかしいでしょうか?その人形はダメな人形でしょうか?人形はもとは同じ型から作られ、装束や装飾でキャラクターが分けられるだけ。人形たちはみな等価な創造物です。

道化とか悪者とかヒーローとか、劇中でつけられたラベルでしかありません。

そしてラベルをつけるのは、この劇がどんなストーリーで、自分がどんな役回りなのかを決めているのは自我です。

みじめな人間のストーリーの主役なのか、華やかな人間のストーリーのわき役なのか。あなたを劇にとどめておきたい自我が決めています。

もしストーリーも役もつけなくていいとしたら?

目の前におき続ける出来事に今の素の自分で、なんの役も演じずに、感じたらいいのです。ストーリーや役は神様に返しちゃうのです。自我の手から放して。

人はつやつやの赤ちゃんで生まれますが、しわしわの老人にいずれなります。しわしわであることは与えられた人という身体の特性です。なにも恥ずかしいことではないです。同様に、老化とともに起こることは自分がダメであることの証拠ではありません。

赤ちゃんは何も知らない状態で生まれます。経験をつんで知っていきます。知らない状態は恥ずかしいでしょうか?できないことはダメでしょうか?そんなことはないです。何も知らずできない赤ちゃんは、生きているだけで宝です。

なぜ大人になるにつれ、知らないこと、できないことで自分を責めるのでしょう。ダメな人だとレッテルを自分ではるのでしょう。道化の役を自分で背負うのでしょう。

つやつやの赤ちゃんもしわしわの老人も、等価の神様の作品です。その身体も思考も心もあなたの作品ではない。恥ずかしく思うことはない。むしろ誇らしく、あらゆる自分を敬って。できないダメな部分だって神様の一部であるのですから。


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