困難を乗り越える必要はありません
わたしたちはこの地球上の人生で、様々なできごとを体験していきます。
そんななかで困難と思えることは次から次へと押し寄せてきます。困難を乗り越えることで成長したり強くなったりする。わたしたちをそうして磨くために困難は試練として与えられている、そういう捉え方が一般的です。
でも、できごとは選択の材料でしかありません。
強くなるためとか、成長するためではなく、自分という人間の輪郭をよりクリアに明確にしていくため、どちらが自分が望むものなのかを選択する機会なのです。自分の本質、内なる声と一致した行動をとり、外の世界を作っていく。それは選択を一つするごとに確実なものとなります。
イエス・ノーゲームというものがあります。
お互い、なにかひとつ頭に思い浮かべ、それがなんなのかを質問によってあてるゲームです。質問はイエス・ノーで答えられるものでなければなりません。
あなたは人間ですか?女性ですか?30歳以上ですか?などなどです。一回に1つしか質問できません。こうやって質問を繰り返すことで、相手の思い浮かべているものがなんなのかがはっきりしていくわけです。
できごとはこの質問と同じ。あなたはこの出来事に直面してなにを選択するか、それを問われているのです。その質問に自分の本質と一致した選択をし続けることで、ゲームのゴールである「自分」が浮かび上がっていきます。
たとえば悲しいという感情を爆発させるような出来事があったとき、その悲しみに身を任せ沈み味わい尽くすか、その感情を遠ざけ出来事への意味付けを理性で考え行動を止めないようにするか、あるいはその感情を認め感じつつもそれに溺れることはせずに流れていくに任せ悲しむ自分を俯瞰するか、選択は人の数だけあります。
そうイエス・ノーゲームとちがうのは、不正解がないということ。そして選択肢は無数にあり、それを自分で創造してよいということ。
ただし、連続する選択の目的、つまりゲームのゴールとしてあぶりだす答えは自分そのものなので、他人や社会の思惑や風潮に流され自分の本質と違う選択をすると、結果的に自分が苦しくなります。
この困難を乗り越えたら次は最高のパートナーと出会える、とか、大金持ちになれるとか、なにか遠くのご褒美を手に入れるにふさわしい、今の自分とはちがうもっと強く賢く成長した自分になる、そう考えるのも選択です。
でも今の自分の本質に一致した選択をした瞬間に、本質の自分が輝き喜びます。思考し行動する自分は、本質の自分と一致すると満たされるからです。本質の自分と不一致な思考や行動は不快を呼び起こします。
試練といわれると、なにか我慢とか忍耐とか気合とか、いやなことを気持ちをおさえて無理やり足をすすめていく印象があります。でもただ選択であり、しかも自分の心が真に満たされる方、これぞ自分だと思う方を選んでよい選択でいいのです。
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