Day 354 ダメな自分におこっていた奇跡
もともと自分の内にあるものを、外からもたらされたと思って味わっているのだ、という昨日のrealization. とつぜんの英語でなんやねん、な感じなんだけれど、この英語のrealizationとしか言いようのないことがあるとつくづく感じている。
一番近い日本語は気づき、もしくは実感。あと肚落ち。この3つを全部ひとまとめにしたのが、realization。知性的・心的に気づいただけでなく、それが現実に身におきていることを体験し、そしてそういうものなのだと理解納得する。
これが昨日おきたこと。皆既月食の満月にふさわしいっちゃふさわしいrealizationだった。
これが起きたときも後も、「わあ~、そんなんだ!世界はやっぱり愛だね、素晴らしいね!」というキラキラな高揚感はない。いつもと変りないけれど、足元の土に水をあげてじわ~っと染み入っていくような、上へあがるより、下へ深く広がっていくような、そんな感覚で一日過ごした。むしろ、それが起きるより落ち着いた感じ。
一日の終わりかけのころ、ここまでの自分はずいぶんよくやってきたんだなとふいに感じて、よしよしと頭をなぜてあげた。振り返ると、とうてい無理であきらめるのが当然という場面をいくつも、あきらめずに乗り越えてきた。自分では乗り越えてきたというより、危機的な状況であきらめるのが賢明なのに、あきらめることもできないダメさを嘆きながらも、あきらめずにいたらギリギリのところで助けが入って、自力じゃなく他力であきらめずにここまでこれたこの1年。
これって奇跡じゃん!とびっくりする。
だめ~な自分なのに、好き勝手に生きて、好きなことをあきらめられずにいるわがままでせっぱつまって、なのに、あきらめずにすむようになにかしらに助けられる。そんなことを何度も繰り返してきた。いい年してギリギリ女の崖っぷち人生。
そんな風に自分でどこかで思っていたこの人生、奇跡の連続だったなんて!
奇跡が起きないかな、そうしたらこのギリギリから抜け出せるのに。ってずっと思っていたけれど、奇跡続きだった。奇跡なんて自分の身には起こるはずない、ってなんて失礼なこと。こんなに起きてるのに。
やっぱり、社会の常識とか成功法則とか、すべてが思い込みなのだ。誰かにとっての真実かもしれないけれど、それが私にとっての真実とは限らない、っていうかそうじゃないことの方が多い。
社会の当たり前から外れたことが実現したときに、奇跡だといわれる。でも、本当は、社会の当たり前なんていうものは実在していない。お金といっしょで、お金というものを作ってそれでものを交換できることにしましょう、そしてそのお金を視覚化したものとしてこの紙をお札ということにしましょう、って決めたからお金が存在している。だからお金は使う人の想いによって存在しうる実態のないもの。社会通念と同じ。
すべての人は全員違うから、それぞれにとっての真実も、実現のルートも幸せの在り方も全部ちがう。だからすべて奇跡なのだ。
社会通念とは、思考が見せている自我のドラマの中で私たちを縛る制限のひとつ。思考の声を無視してどうしてもそうしてしまう自分を許すことで、社会通念から外れたルートでその人なりの想いの達成がおこる。そしてそれは社会通念、つまり思考の制限から外れているので奇跡になる。
だからちっともダメではなかったのだ。ダメという判断も社会通念の枠のなかのもの。ダメの良いもない。すべて枠の中にはまらない。それが自然なのだ。
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