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真面目も不良も同じじゃないか?!

自分のことを、おれたち真面目だよな、っていうのと、おれたち不良だよな、っていうのは同じなんだな。

どういう定義でこのことばを使うかによるけれど。

自ら選んで大変なことやめんどうなことを避けずに取り組むことを真面目といい、他人の決めた基準にはまらない行動をたとえ非難されようとも選んですることを不良というとすれば、どちらも自分で選んでいること、そして、自分でやりたいと思ったことを一般的な基準を超えたり反したりしてとことんやっているという点で、同じだよな、って思う。

そしておれたち、もしくはもちろん私たちでもいいのだけれど、真面目だ、不良だ、ということを、自嘲気味にかつ、誇らしげに言うときというのは、世間一般じゃない、並じゃない、枠から外れて自由だ、とんがっている、ということをどこかで好ましく思って、枠にはまれない自分たちを自嘲するとともに、実はそれを誇らしくも思っている。

だから、俺たち・私たちって自由で特別でしょってこと。

70%の仕上げでいいことを100%をめざして時間や労力を費やしているとき、真面目という。そこの30%をこだわってしまう型破りさ。非常識さ。

他人や社会の常識になんてとらわれず自分を貫き通すとき、不良という。自分に正直に生きることへの真剣さ。まじめさ。

ほら、同じではないか。

ただし。

これを自分でいう人たちは本当のまじめや不良ではない。本当のまじめや不良は、はみでていることにすら気づかない。あるいははみ出ていることを喜べない。はみだして「しまう」のが実際だから。

結局、俺たち私たち真面目よね、不良よね、と言って喜んでいる人たちは、常識的である、ということを果てしなく意識していて、「常識的」の枠のなかの一番端にいることで、特別感を味わって喜んでいるだけなんだ。

その点でも、両者は同じだなあ、って思うのだ。

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