モーレツ好きなものがある強さ
モーレツに好きなことがあるというのは素敵なこと、と言われる。
コーチングや相談でお話しを聞いてきた方たちの3分の1は、ほんとうの自分のままに生きたいと思うものの、自分が何が好きか分からなくなっている。
自分を後回しにして生きてきた結果、自分の情熱も欲も持ってはいけないものという引き出しに突っ込まれ、どこにあるのかすらわらなくない。
一方、好きなもの、やりたいことがまっすぐに分かっているっていうのは、その情熱を人生のナビにすればいいので、幸せに近いように言われる。
しかし今度はこの人たちの多くは、好きなことを思いきりやりたいのにできないという悩みを抱えている。これもすごく苦しい。
ただ自由に好きなことができない状況に追い詰められたとき、モーレツに好きなことのためにならなんでもやってやる!というスイッチが入る。
プライドも見栄も不安も怖れも全部ふっきって、なりふりかまわず自分にそれをさせてやるんだ!というスイッチが入りやすい。
それがないと現状が苦しくても、不安に流されて無難だけれど悩ましい選択をしてしまう。自分を少しずつ消費する選択を。
どっちがいい悪いとか正しい間違っているとかではないんだ。
好きでもないし、我慢できなくもない。楽しさも嫌さも薄くある安定の日々か、モーレツ好きだけどモーレツ追い詰められもする振れ幅の大きい日々か、どっちを生きたいかの選択なのだ。
そしてモーレツ好きなことのためにがむしゃらにやっているうちに、上手くいくかもしれませんよ、という希望はある。でもそれは保証されているわけではない。その波乱万丈そのものが人生の目的かもしれないから。
ちなみに私はどう見ても波乱万丈型。いつのまにかそうなっていた。
この前算命学ができる人もいっていた。残念ながら安定の人生は望めません、て。ハハハ、ですよね。言われてすっきりした。
モーレツ好きなことを自分にやり続けさせてあげるために、アホになろうと思う。そして夢を叶えるまで、どんよりやくよくよを手放すことにした。
どうせ波乱万丈なんだから、いちいちどんよりやくよくよの沼にはまっていても私の人生計画とか不安とかそいういうのはまったく忖度されずに人生はうごいていくのだから、アホらしいではないか。
ま、そのように今は思うことにした。長らくお休みモードだった男性性のスイッチが入ったのかな。沼はいつでも足元にあるけれど、モーレツ好きをまっすぐに見つめればとらわれないで行ける気がする。