中原中也という人のことを、私はほとんど何も知らなかった。(神田将さんと、中井智彦さんのコンサートに寄せて)
知っているつもりで、実は知らないことって、案外たくさんある。
たとえば「中原中也」という人のこと。
「汚れちまった悲しみに」や「ゆあーん ゆよーん」の詩人であることは知っていて、詩集もぱらぱらとめくったことがある。早世したこともぼんやりと知っている。
それくらいの曖昧な知識で、何となくロマンチックなイメージを抱いて、中原中也をテーマにしたコンサートへ出かけた。
豊洲シビックセンターホールで開かれた「1×1=∞ シリーズ 神田将・中井智彦 ON STAGE ~在りし日の歌~」。
エレクトーン奏者の神田将さんと、ミュージカル俳優中井智彦さんが、ステージの上にたった2人で、中原中也の世界を表現するコンサートだ。
劇団四季で、「オペラ座の怪人」のラウル、そして「美女と野獣」の野獣を演じた中井さんが、中也の詩に自作の曲をつけ、情感たっぷりに歌い上げていく。
音楽に引き込まれていくうちに、詩を読むだけでは難しかった中也の世界観が、自然と身体に入ってくる。
全然知らなかった。
弟の死をきっかけに、中也が詩作を始めたこと。
中也が心から愛した恋人が、小林秀雄のもとに去ってしまったこと。
幼い長男を亡くし、ショックで精神を病んだこと。
30歳の若さで亡くなり、その1年後に次男も亡くなってしまったこと。
そして、行き場のない悲しみを、独特の美しい言葉の中に結晶させていたこと。
たった一人の、しかもごく短い人生の中に、これほどたくさんの悲しい出来事を詰め込むなんて、神様はあまりに気まぐれが過ぎるのではないだろうか。
中也の30年間には「兄弟を亡くす」「親友に恋人を奪われる」「愛する子どもを失う」「人生これから、というときに病で亡くなる」という、「人生で一番経験したくない辛い出来事ベスト4」が、悲しみの博覧会のように並んでいる。
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ところで、優れた芸術が「犠牲」や「生贄」を求める。という、古くからの言説に対しては、私は「きっぱりと距離をとりたい派」に属している。
悲しみや苦しみのどん底にいる芸術家が、後の世の人の心を打つ作品を生み出すのは、その芸術家が才能や純粋さ、強いこころを持っていたからであって、犠牲や生贄から優れた作品が生まれるわけではない。
今、幸運にも同じ時代に作品を見聞きすることができる大好きな作家や音楽家には、できれば毎日睡眠をしっかりとって、適切な運動をして、栄養のあるごはんをもりもりと食べ、愛する人に囲まれて、100年も150年も幸せに長生きしてもらいたい。
そうして、世界を美しくする作品をたくさん生み出してほしい。
そのために、発売日に本やCDを買ったり、コンサートに行ったり、コンサートが開けない時期には配信ライブを観たりして、ささやかでもずっと応援していきたい。
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もし中原中也の時代にインターネットやSNSがあったら、陰影の濃い彼の言葉は、すごく人気が出たんじゃないかな。と夢想してみる。
そうしたら、文学に関心があるひと握りの人だけじゃなく、同じ悲しみや苦しみを抱えている人のもとに、リアルタイムで中也の言葉が届いただろう。
ファンたちは(もちろん私も!)中也の有料noteに喜んで課金するだろうし、絶望した中也がTwitterで深夜に情緒不安定な言葉を呟いたら、「あなたは一人じゃないです」「あなたの言葉に救われています」ってコメントして一生けんめい励ますだろう。YouTubeやニコ生で朗読会だって開けるかもしれない。
そんなことを延々と妄想しながらふと、「中原中也と同じ時代に生まれなかったこと」を悔しいと思っている自分に気づく。
だって、時空の彼方にいる詩人に、いったいどうやって思いを伝えればいいんだ?
90年後の世界に、あなたの言葉を確かに受信している人がいます。
だから、そんなに悲しまないで。絶望しなくていいんです。
あなたの言葉は、別の芸術家の手で美しい音楽に生まれ変わり、人びとの心を震わせている。
あなたは永遠を手に入れたんです。
いったいどのSNSをダウンロードしたら、どのポストに投函したら中也にメッセージを届けることができるのか、自分の無力さに途方に暮れるような切ない想いで、私は豊洲シビックセンターの座り心地のいい椅子に身体を沈めていた。
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コンサートは2部構成で、前半が中原中也の世界、後半は神田さんと中井さんが古今さまざまな曲を演奏する仕立てになっていた。
2部に入って、それまで控えめな伴奏に徹していた神田さんが「オペラ座の怪人」の最初の音を弾き始めたとき、あまりの迫力に、私は椅子から3センチくらい飛び上がった。
私の目は、ステージの上に、1台だけ置かれたエレクトーンを捉えている。
一方、私の耳は、オーケストラのように多彩な楽器の音色を一度に聴いている。
目と耳から入ってくる情報が一致しない。
一体何がどうなっているのか、混乱しながらも、今までに聴いたことのない音楽に引き込まれていく。
そして中井さんの歌唱!
四季劇場で毎回1000人以上の観客を魅了し続けてきた歌声を、間近で聴くことができるのは、もはや「僥倖」と言っていいと思う。
喜びも悲しみも、愛も怒りも自在に表現する歌声に、あっというまに心をつかまれて、気がついたらぼーぼーと涙が流れていた。拭っても、拭っても視界が曇ってステージが見えない。
ミュージカル俳優さんって本当にすごい。
何かとてもあたたかい贈り物をたくさん受け取ったような気持ちで、それらをぎゅっと抱きしめて帰途に着いた。
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知っているつもりで、知らないことは人生に無数にあって、知らないままでも、生きていく上で困るわけではない。
ただ、「知る」ことで世界の見え方はがらりと変わる。
今まで気に留めなかった風景や、言葉が深みと輝きを増し、いま、生きていることを強く感じられるようになる。
帰ったら、中原中也の人生を思いながら、もう一度詩集を読み直してみようと思った、秋の終わりの一日。