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“周りを見てる”と”気が散ってる”の違い-3泊4日の参禅修行②
毎朝5:30頃から行われる朝のお勤めは、荘厳で異世界のような雰囲気を味わえる代わりに正座という恐怖が伴っていた。
朝の座禅が終わった後は、4階にある禅堂から1階まで降り、別の場所にある法堂に移動する。移動中の、夜と夜明けの間の時間に見た外の景色は新鮮で神秘的だった。5:20頃に着き、正座で待機。
到着してすぐは修行僧が数人、観世音菩薩が祀られた場所を掃除しており、お勤めが始まると、修行僧や役職のついた僧侶が足並み揃えて集まってきた。その数は100人ほどだったと思う。5人づつお坊さんが畳の上に座る。腰を低く落とし、両手でお経を目線の高さに持つ修行僧が、お経の冊子を配る。みんなが読む声に合わせて私たちも読む。それを十数ページ繰り返す。
足の感覚がなくなってくるのは、たいてい30分を過ぎたころ。座る位置をずらしてみたり、つま先をひっぱってみたりしても、まるで石を付けているかのように何も感覚がない。「早く終わって……」と心の中で叫びながら、ポーズを崩さず足早に配る修行僧を見つめる。するとぽつりぽつり、なんだか違和感のある修行僧に気づく。
様子をうかがうかのように、キョロキョロと目が動く修行僧と、参禅修行の私たちに顔が向き、こちらを見る修行僧。たった目線が動くだけで、「心ここにあらず」がはっきり伝わってくるのだ。状況把握のために“周りを見ている”のとも違う、なんだか目立ってしまうあのキョロキョロは一体何なのだろう。
*
よく気が付く人は、周りが見れている。会社であの人がどんなことをしたとか、いつも着ない服を着ているとか、みんなが流してしまうようなことにも目を向けて、ちょっとの変化からその人のことを想像する。彼らは周りに十分注意を払っていて、けれど「心ここにあらず」の現象とは違うよなぁと思う。
ふたつの違いは、全体における「自分の位置」を知っているかどうかになるのかなと思った。キョロキョロの修行僧は、目線が違う時はきっと自分のことを一切考えていないし、過去か未来かにぼんやりさまよって気持ちがふわふわしているのかもしれない。または、誰か1点に集中してしまい、その人以外を見ることができない。
今自分がすることと、それと周りが調和してるかを見るならば、周りを観察していても違和感なく溶け込むんだろうなぁ。自分のしてることはさておいて、他の人に気持ちが行ってしまうことはわからなくもないけれど。
そんなことを思いながら、しびれと戦い周りをキョロキョロ見回す私だった。
眠すぎてまとまりません。
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