急いで
「しまった、もうこんな時間か。急いで家を出ないと!」
孝志はその日、急いで家を出た。
電車に間に合うようにと、全速力で走っていたので、
真後ろから走ってきた大型の自転車に気付かなかった。
「あ、痛ッ!」
自転車の前輪が軽く孝志の右足にぶつかっただけであったが、
思わず悲鳴を上げてしまうほど、痛みはひどかった。
「すみません、ちょっと急いでいたもので・・・」
自転車に乗っていた20代後半くらいの若い女性が、
孝志にそう声をかけた。
「大丈夫ですよ、全然何ともないですから」
ニコリと笑みを浮かべるだけで精一杯だった。
早く電車に乗らなければ、乗らなければという強迫的な気持ちだけが
孝志の頭の中にあった。
「7時30分発~〇△駅行、まもなく発車しまーす」
全速力で走って走って、何とか始業時刻までに会社に到着する
電車の便に間に合った。わずか30秒前という、ギリギリの駆け込み乗車だった。
「わっ、急がないと。学校の授業に遅れちゃう」
「取引会社の課長と商談をするのは朝の8時・・・間に合うだろうか」
電車に乗ると、若い女性や年配の男性の声がたくさん聞こえてきた。
「急いで、急いで・・・」
若い女性が口にしていた言葉をぼんやりと繰り返した。
思えば、朝からこの言葉ばかり聞いている。聞いているだけじゃない、
自分でもこの言葉を発した。
どうして僕は、こんなに急いでいるんだろう?
まずは自分自身に理由を問いかけた。初めに浮かんだのは、
「時間は守らないといけないから」という理由。
子供の頃から親や教師などの周りの大人たちからそう口酸っぱく言われた。
時間は守らないといけない、だから会社へ急ぐ。
それが絶対正しいと思って今まで生きてきたけれど、
急ぐあまり自分とぶつかった自転車の女性や、痛みをこらえて
電車に飛び乗った自分のことを思い返すと、絶対に正しいとも言えないのではないかという苦い想いが、胸に込み上げてきた。
「もう少し、みんなゆっくりでも良いんじゃないかな・・・」
薄暗い電車の窓に向かって、ポツリとそう呟いた。
みんながゆっくりしていれば、お互いにぶつかることもない。
万が一ぶつかりそうになったとしても、ゆっくりと歩いているので
すぐにその場で止まることができるだろう。
「ああ、痛っ・・・」
自転車とぶつかった右足がじんじんとひどく痛む。
一日、いや一週間くらいは無理に歩かず自宅で安静にしていたほうが
良いかもしれない。そう思っても、結局休むことなく急ぎ続けるんだろうな。そんな未来の自分が容易に想像できて、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。